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妹は知らない⑧

 8

令和四年7月12日。

 二人を乗せた車は高速をひた走った。
 札幌のホテルに一泊した後、朝一の便で東京に戻り、そのまま延々と車移動。
 森と山鳥に囲まれた赤食村に到着したのは正午を過ぎてからだった。
 限界集落のもう一つ上の段階。危機的集落。赤食村は完全にそれだった。
 若者は皆無。あと数年でこの世を去る年寄りだけが、その時まで静かにひっそりと暮らそうとしている、何の音沙汰もない村。村面積の大半を占める畑は、その半分が荒れ地と化し、放置されている状態だった。昭和初期に建てられたような空き家がいくつもあり、正直村落として回復の見込みは無いものと思われた。
 最近唯一賑わったのが集団自殺の一件の際に捜査関係者が大挙してきたことだそうだ。
「あんたここで暮らせば?」
 死を避ける意味で宝生からのこの提案を無視した日々だった。遠くの方で見たこともない鳥が啼いていた。
 二人は自殺体が見つかった森の近くまで車で移動し、車が進入できなくなってからは徒歩で移動した。
 日々は森を行く途上、宝生の背中にぴったりと貼り付いて移動していた。危険が迫った時にすぐにそばにいる人間を犠牲にできるよう体勢を整えているのだ。
 現場までは草木の無いルートが事前に確保されていたかのようにスムーズだった。おそらく自殺者たちは歩きやすいところを選んでそこに辿りついたのだろう。
 そして二人は木の天井で覆われていた空が急に開けた原っぱに出た。ここが集団自殺の現場だった。
 死体が発見されたのは一週間前のことだった。山菜採りに山へ入った赤食村の女性がその惨状に出くわしてしまったのだ。
 死体は老若男女、合わせて九人。いずれも腐食が進んでおり、死後一週間以上が経過していた。ちょうど宝生が車を停めた地点に自殺者の一人が所持し、ここまで運転してきたと思われるマイクロバスが一台停まっており、それが九人もの人間を山奥まで運んだ移動手段であると推測、断定された。
 警察の調べによると彼ら九人が知り合ったのは、もはや今の時代自殺志願者のお馴染みの手法となってしまった「自殺サイト」を介してなのだという。自殺志願者同士が慰め合い、同じような苦しみを共有し合うことで自殺を抑止するのが目的の優良サイトもある中、彼ら九人が利用したのは、本気で死のうと考え、しかもそれを誰かに止めてもらおうなどとは、助けてもらおうなどとは思ってもいない稀有な人々が集うサイトだった。
 この自殺サイトは違法営業のネット喫茶伝いで運営されており、今はもうそのサイトは閉鎖されていた。いちいち客の名簿もつけていない、防犯カメラすら用立てていない違法店だったので、利用者の特定は不可能だった。
「水城。あれ」
 日々は近くの山のてっぺんを指差した。遠いようで近い距離にあるその山の。
「何かしら。お寺?」
 日々の指差したそこには何かしらの建造物が、木々の背丈を超えて顔を出しているのが見えたのだ。
「わざわざ現場まで来た甲斐があったな。こんな近かったとは」
 日々が言う。
「アレがそんなに重要?」
「御国九十九の生家ってあの寺じゃないか」
 日々が何の確証もなくそんなことを言う。宝生は否定も肯定もしなかった。
「一旦村の方に戻りましょう。ここからじゃ森を抜ける必要がある。私は嫌よ。あなたはもっと嫌なはずよ。村の方からなら山道があるんじゃないかしら」
 宝生のこの提案にうんともすんとも言わなかった日々は、現場に何か心残りがありそうな態度だった。
「何よ日々」
 これに対しても特に返事がなかったので、宝生はその男を無理やり車に押し込んで有無も言わさず村に戻った。
 途中、畦道を歩くしわしわの高齢女性を発見したので、宝生は車を停めて窓からその人に声をかけてみた。山の上にあるお寺に行くにはどうしたらいいかを訊ねたのだ。
「赤食寺ぁ?」
 麦わら帽子から布を垂らしたお婆ちゃんは、宝生がびっくりするくらい車に近寄ってから会話しようとしてきた。おそらく耳が遠いのだろう。
「あそこはもう、だぁれもおらんはずよぅ?」
「潰れちゃったんですか?」
 大きめの声で宝生が問う。
「ああ。もうだいぶ前になるけどなあ」
 ほとんどウィンドウの淵にしがみつきながら応答するお婆ちゃん。日々は助手席からそれを恐れおののく様子で眺めていた。
「幽霊ならおるよ」
 表情を変えずにお婆ちゃんはそんなことを言った。
「幽霊、ですか?」
 何故か社交辞令以上の笑顔で対応する宝生だった。
「うん。もう、みんな見とる」
「ここの村の人、みんな?」
「うん、みんな」
 一応、どんな幽霊だったかを宝生は訊ねてみた。訊くのが礼儀と思ったのだろう。
「夜中に見たんだぁ。あっちの、寺さ通ずる道の方で」
 お婆ちゃんは自分にしかわからないその道の方向を指差して説明していた。
「着流し着て、腰さ帯刀して、おっかなかったよぉ」
「着流し、帯刀――?」
 さながら侍の亡霊である。
「いつからですか? その幽霊見るようになったの」
「ここ十年くらいだなぁ」
 割と最近。宝生はたったそれだけでフィクションの壁が壊されたような気がしていた。出現時期がハッキリしているというだけで急に幽霊に現実味が帯びてきたのだ。とりあえず寺に通じている道というのをもう一度訊いてそのお婆ちゃんを解放してあげた。
「どう思う? 幽霊」
 宝生は日々の意見を聞いてみたかった。
「幽霊が出てから十年って言ってたな。あのバアサン」
 日々が眠そうな顔をしながら言った。
「ええ」
「俺も十年前からだろうなと思ってたから、きっとその十年という数字は正確だよ」
「は? なんで十年なのよ。何よその仮説」
 すると日々は宝生の顔を横目で見ながら、薄笑いの口を開いた。
「御国九十九は現在七十一歳だからだ」
 即座に日々の発言の意味するところを察した宝生だった。
「ああ、定年退職! 彼が退職してからもう十年近く経っているんだ」
 日々はその着流し帯刀の幽霊の正体に確信を抱いていた。
「そして、真崎透が謎の自殺を遂げたのもおよそ十年前」
 そこで宝生はあることに気が付いた。
「日本刀……。真崎が復讐に使うはずだった……」
「ああ。それだ。それが最も気になっていたところだ」
 幽霊は帯刀していたというのだ。
「真崎の怨霊ってオチではないでしょうね」
「いや、御国が持っていったのはハードディスクやらの研究資料だけではなかったんじゃないか」
「つまり、件の日本刀も金を渡して譲ってもらったと」
「いや、それに関しては金がどうとかよりも、空き家と同じだと思うよ。相続人が持てあましていたんだ」
「銃刀法ね」
「ああ。刃渡りしだいで免状の有無が必要になってくる。日本刀なんか完全にアウトだ。だから欲しいというやつにくれてやった」
「でもどうして帯刀なんてしてるのかしら? 江戸の役立たず共の天狗の鼻みたいな義務ってわけじゃあるまいし」
 何かに対し辛辣な宝生は幽霊がいる前提で話を進めた。
「刀なんて持ち歩く理由は限られてくると思うのよ。誰かを殺すためか、護身用のため。このどちらかしかないわ。当然銃刀法違反に該当するものだから、そんなもん持ち歩くだけでハイリスクじゃない。それを押してでも持ち歩く理由って何なんでしょうね」
 宝生は考えるふりをして日々の横顔を伺っていた。変人の理屈は変人にしか理解できないと諦めているのだ。
 そんな宝生の思考にとっくに気付いている日々はそれでも自分の見解を述べた。
「ピストルでも代用できるかもな」
「それはだから、護身用ってことでしょ?」
「生殺与奪の権利を常に自分側が持っている。そう思わせることができるじゃないか。誰よりも自分自身にね」
 宝生は一瞬理解しかけたのだが、一瞬でまた遠ざかった。
「自分はいつでも人より上に立ちたいと思ってる。それと同じ思考ってこと?」
「本人に聞けよ」
 日々は素っ気なく話を打ち切った。「本人に聞け」というかなり真っ当な理由で。なるほど、本人に訊くより外(ほか)ないことなのだ。だが宝生は食い下がった。
「あなたはどう思ってるか聞きたいのよ。真実がどうかは別」
 すると日々は横目を走らせ、宝生の大きな黒目だけを器用に捉えた。
「生殺与奪の権利とは、いわば逆らうことのできない絶対の権力だ。それを持っている者は自分自身がルールとなる。自然と法の優先順位など繰り下げになる」
 宝生は聞いて良かったと思った。やっぱり日々の意見は面白い。単純にそう思えたからだ。
 法よりも上に立つため。日々の言いたいことはそういうことなのだろう。
 その後、宝生はすれ違う村人に幽霊のことを訊ねて回ると、遭遇した村人三人が三人とも着流し帯刀の幽霊を見たことがあると答えたのだ。しかもその内の一人、死ぬ寸前のようなお爺ちゃんなどはその着流しの幽霊とは別のもう一体の幽霊も一緒に目撃したのだという。
 夜、お寺へ通じる道の上を着流しの幽霊と連れだって歩く、青白い顔をし痩せ細った死人のような幽霊――。
 死神が死者を操っているように見えたという。
 しかもこの目撃談はつい最近のことなのだとか。
「これだけ同じ幽霊を見た人がいるなら、これは見間違いなんかじゃないってことね」
 宝生はそう結論付けた。
「だとすると、さっきのお爺さんの見たっていう、着流しと一緒に歩いていた死人のように痩せ細った幽霊もきっと本当にいるんじゃないかな……」
 宝生が言いかけた時、日々が急激に勢いづいて意見を述べた。
「そのもう一体の幽霊こそ、俺が狙っていた人物かもしれない」
「は?」
 引きこもりとは思えない程に日々の目は爛々と輝いていた。
 宝生は正直、日々が何をここまで興奮しているのかまったくわからなかった。着流し帯刀の幽霊に着目するならわかるが、目撃談の少ないその幽霊に何の意味があるというのだろう。
「まだあの寺の中には着流し帯刀の幽霊がいるのかもしれないわよ。御国九十九の所在はわかっていないわけだし」
 不安ではなく、どちらかというとワクワクした感じでそれを気にしてみた宝生だった。
「行ってみたらわかることなので、行ってみたらどうでしょう」
 日々がめんどくさそうに応じる。
「行ってすぐバッサリやられたらどうすんのよ」
 宝生は当然の心配をした。だが宝生自身すでに行きたがっているので、車はすでに教えてもらった寺までの道を目指して徐行していた。
 山を見上げると、道が途中で森の中に吸い込まれている。その先に寺があった。今はもう廃寺になっているそうだ。村の適当な空き地に車を残して、寺までコソコソと徒歩で行こうということになった。バッサリやられることを警戒しての措置だ。
 昔は寺まで道が続いていたはずなので、その名残の道モドキを辿っていくと意外と楽にお寺に辿り着くことができた。その際、二人はコソコソと物陰に隠れながら移動した。宝生は仕事柄隠密行動は慣れたものなのだが、出来の悪い相棒が彼女の背中にこびりついて離れなかったので、もし本当にお寺の中に帯刀した幽霊がいたら確実に漏れた気配を察せられ、二人ともいっぺんに両断されていたことだろう。
 なんとかこんとか二人は寺までたどり着いた。
 その辺にある木材の色は剥げ落ち、元々の色だった黒が素材の剥き出しになったただの太い丸太に所々こびりついていた。境内の草むしりはしばらくサボっていたようで、辺り一帯が完全にくさむらと化していた。
 赤食寺は全体として環状になっており、奥の本堂と前面の中門をグルリと回廊が繋げているような構造をしていた。その環の中にどうやら住職一家の生活スペースが襖一枚隔てて確保されているようだ。更に寺の奥にお坊さんが暮らすための僧房があった。
 寺自体は古びて老朽化していたが、それは風雨にさらされる表面部分だけが剥げ落ち褪色してしまっているだけであって、中身に目立つ欠損は見当たらなかった。
 居住区域も含めて寺の中には誰もいそうになかった。何百年もの年季が入っていそうな桐笥や行李が朽ち果てた状態でその居住区域に残されてはいたが、同じくらい年季の入った衣類が数点収められていただけで、それ以外にかつての住人の手がかりとなるようなものは残されていなかった。
 それでも足跡や埃についた手の跡等、つい最近まで人がいた気配なら随所に見受けられた。
「やっぱり、誰かいたみたいね」
 回廊の埃を気にしながら宝生が言う。
「もしその何者かがここに残っていたら、俺もお前も斬られて死んでるな」
 宝生の背後から男が呑気なことを言った。
「あんたが足手まといな所為でね。それよりも、全然掃除してないわねここ」
 非難しているようで、宝生の声には棘が無かった。
「おかげで足跡も手の跡もばっちり残ってるわ。こんなふうに埃が溜まってなきゃ目視で確認なんてできないからね」
「調査員たるお前の領分ってわけか。何かわかったようだな」
 日々は宝生の態度からそう判断した。
「ええ。最近ついた足跡は一人だけのものじゃない。明らかに二人分の足跡がここには残されているの」
 日々の方を振り返りながら確信的に宝生は言った。
「てことは、さっきのあのジイサンはまだまだボケていないということか。ここに幽霊は二体いた」
「そうよ。でも、ここも含めた回廊の部分はただの通り道として使っていただけかもしれないわね。残されてある痕跡からは長居している様子は見受けられない」
 そして二人は警戒しつつ本堂に足を踏み入れた。
 中は畳敷きで、奥の壁際の中央には豪華な仏壇のような御本尊が収められていた。柔和な顔をした金色の、それほど大きくはない仏像。その左右に同じような造りの仏像を二体侍らせていた。全員が埃まみれで、威厳は消失していた。
 その本尊の正面、目前。彼らと向かい合うその位置に座布団が一つと、写経に使うような小さな机、経机(きょうづくえ)と呼ばれるものが一卓、座布団の前に置かれてあった。
 経机の上とその周りの床面に半紙が何枚も散らかっていた。その半紙にはどれも絵が描かれており、それは明らかに墨で描かれていた。経机の周りには硯や筆も転がっていて、どれも埃をかぶっていた。
 二人は近づき、床で埃をかぶっている半紙を手に取って見た。
「大仏かな……」
 二人がそれぞれ拾った半紙には胡坐をかいている大きな仏像が描かれてあった。一方は奈良の大仏を彷彿とさせる柔和な表情。もう一方は仁王を想像させる怒りの形相。
「下描きなんてしてないはずなのに、なかなか上手ね」
「散らかっている半紙はどれも仏像を描いているようだな。ここで筆を走らせていた誰かさんは果たしてクリスマスをどう過ごしていたのか」
 表情を変えた仏像の散乱。それが何を目指して描いていたものなのかは分かりかねた。少なくとも正面に立つ本尊とは関係の無い仏のようだった。
「合格者一名がどこかにいるはずだ」
「あ、机の上のそれじゃない?」
 宝生が手に取ったその半紙にもやはり仏像が描かれていた。
「表情が……無い」
 のっぺらぼうの仏が胡坐をかいて座しているのみ。手は仏教上意味のあるポーズを取っているわけでもなく、右も左も組んだ足の上に自然に置かれていた。
 無だ。
「色々試して、最後に行きついたのがこれ?」
 宝生は半紙を持ち上げて首をかしげていた。
「色々試さないとそこに行けなかったんだよ」
 日々は首をかしげることなどなかった。
 本堂には結局散らかった墨絵の半紙以外何も無かった。
「あとは僧房か」
 本堂の奥の通路を通り抜けると、そこは裏庭に通じていた。裏庭も長年放置されていたことが丸わかりなほど荒れ放題だったが、元気良く生い茂っている植物が踏みにじられて道になっている動線が目に見えて明らかだった。
 その道の先には。物置小屋が三つ連なったような小さな建物がある。それが僧房である。
 宝生を先頭にして、草が弱体化した道をずいずい進んでいく。宝生は警戒心を最大限喚起させていた。中から抜身の刃を光らせた幽霊が出てくることくらいは想定しながらの行軍だった。そしてその背中に隠れて移動する日々。
 僧房の横手には古めかしい井戸があった。中を覗くと、真っ暗闇の中にキラキラと光を反射するものが見える。水である。
「これ、まだ使えるわね。滑車も機能しているわ」
 宝生が言いたいのは、この寺でこっそり生活することも可能だということだ。
 二人は三つ並んでいる僧房を右から片付けていくことにした。
 僧房の中はどこも三畳しかなく、最初に入った部屋は寝床と本堂にあったような経机を一つ置いただけの虚しい造りだった。三畳の大半はぼろきれのような寝床が敷かれることで埋まってしまっていた。
「布団の上、全然埃がたまってない」
 宝生がかがんでそれを確認した。
「つい最近までここで寝泊まりしていた不届き者がいたようだな」
 日々はかがまず、見下ろしながら意見を述べた。
「どうして不届き者なのよ」
「廃屋に無許可で寝泊まりするホームレスと何が違う」
 言いながら、日々は布団を無造作にめくって、更には手で持ってバッサバッサとそれを振り払った。宝生は日々の突然の奇行に驚くよりも、狭い空間に遠慮なく舞い踊る塵と埃の波状攻撃に鼻と口を塞いで迷惑そうにしていた。
 その時、日々に振り回されていた布団から、畳の上に何かがはたき落とされた。
 日々はそうなることがわかっていたかのように布団をさっさと手放し、畳の上を転がるそれをキャッチした。
「布団の中の遺留物が狙いならもっと他に方法があったんじゃないかしら」
 収穫よりもまず、宝生はそのことについて言及した。
「操作の複雑なゲームをやっているとね、つい押しやすいボタンを優先して押してしまうことがあるんだ。選択肢はたくさんあるように見えて、実は答えなど最初から一つしかないということさ」
 拾ったものを角度を変えたりして眺めながら、日々はそんな言い訳めいた理屈を披露した。
 宝生は屁理屈に言いくるめられる前に追及するのをやめた。それよりも拾得物の方が気になってきた。
「それ……、指輪?」
 日々がよく見せようとしないので、宝生は仕方なく日々の肩越しにそれを覗き込んだ。
「ああ、指輪だ。それも永久的な奴隷契約を結ぶ際に用いられる呪術具だ」
 結婚指輪のことを遠回しに述べているであろうことは宝生にもわかった。
「まさか、これも月見ちゃんのと同じじゃないでしょうね」
「いや、別物だ。それにこっちはしっかりと名前が刻まれてある」
 そう言って日々は指輪の裏に刻印されているアルファベットを宝生に見せた。
『KAGA YUJI』
「かがゆうじ、ねえ。どちらさまでしょうか」
「それは決まってるだろう」
「え?」
 日々は断言した。
「痩せ細った死人のような幽霊さ」
「根拠は?」
「何を聞いていたのだお前は。痩せ細っていたと言っていただろう」
 日々のこの言葉で、宝生はようやく日々の思考に追いついた。
「そうか。指輪が自然に外れちゃったんだ。指が痩せて細くなって。こんなところで布団に埋もれていたということは自分の意志で外したのではなく、気付かないうちに外れてしまった可能性の方が高いものね」
 日々はそっとポケットに指輪をしまいこんだ。
「大事なのはそんなことじゃないけどね」
 そして何かを言い置いて部屋から出て行こうとした。
 宝生は日々のその含みのある様子を見た時、記憶のどこかで何かが引っかかった。
 かが、ゆうじ――?
 隣の部屋には「かがゆうじ」のいた部屋と同じくボロ雑巾のような布団と小さな机しかなかったが、布団はきちんと畳まれて端によけらており、埃もあまり溜まっていなかった。
「ここにもう一人の幽霊がいたようだな」
 刀がないかな、などと言いながら日々は部屋を見回した。
 結局その部屋には残されているものなど一切無かった。
 最後の僧房の中は、前の二つと広さは変わらないが趣が違っていた。布団はなく、経机が部屋の中央に置かれていて、それは二つの座布団に挟まれる形となっていた。
「誰と誰が向かい合っていたか、わかりそうなものだな」
 これを目にした日々がそんなことを言った。「かがゆうじ」と御国九十九のことである。
「ここでお説教でもしていたのかしら」
「説教ではなく洗脳かもしれないな。だからかがゆうじは……」
 その時、急に日々の口が止まった。表情も。
「何?」
「エンジン音がした。この寺以外何も無いところなのに。ここに誰か来るかもしれない」
 二人は素早く動き、部屋から出て僧房の裏側に回った。本堂から誰か来るのであれば隠れながら見ることができる。
 二人は重なるようにしてしばらく僧房の角から顔を覗かせていた。それこそ姉弟のように見える光景だった。
 すると、足音がだんだんと近づいてきた。
 やがて裏庭に姿を現したのは、二人も良く知っている人物だった。
「御国、千次――」
 それは彼のイメージからは想像できない程険しい表情をした御国副代表に他ならなかった。こんなド田舎にまでスーツを着てきているが、すでに汗で湿っている。
「ご機嫌斜めだな」
 日々もその表情の違和に気が付いたらしい。
 千次はそのまま僧房の右側の部屋へと入っていった。
 二人はその場を動かず、耳だけを澄ましていた。姿が見えない以上、五感の中で頼ることができるのは聴覚しかない。
 バッサバッサと、音がした。
 二人は先ほどこれと全く同じ音を聞いたばかりだった。
「何か探しているみたいね」
 そして二人はその何かにもう気付いていた。
 壁越しにも千次が狭い部屋の中をバタバタと移動して回る音が聞こえてきた。もしかしたら畳を全てひっくり返しているのかもしれない。
「くそっ!」
 大きな声が山中に響いた。
 二人は思わず顔を見合わせた。
「何で僕がこんなことを……!」
 御国千次が不満を述べながら僧房から出てきた。
 千次はイライラが声だけで伝わってくるほどに感情を露わにしていた。怒りと焦りの感情。しかもそのどちらも彼には似合っていない。隠れている二人もそのストレートすぎる感情の発露に驚いていた。
 宝生が咄嗟に日々を引っ張り、後退して、隠れる位置を微妙に変えた。もしかしたら右から順に僧房の中を探索していくつもりなのかもしれないと踏んだからだ。そうすると今いる位置は左端の僧坊から近すぎることに気が付いたのだ。
 案の定、千次は三つとも僧房の中を荒らしまわった。全て探し終えて収穫が無いと知ると、またぞろ彼は野山に向かって叫び声を上げた。
「ばかばかしい! 僕を何だと思ってる!」
 ポケットに手を突っ込みながら僧坊の壁を蹴り込む彼の表情は、来た時以上の憤怒に覆われていた。
 しばらく身を隠していた二人だったが、エンジン音が空にこだましたのを耳にして、ようやく姿を現すことにした。
 左側の部屋に入ると、畳も経机も布団も見事にぐちゃぐちゃになっていた。
「お寺の近くまで車で来なくて正解だったわね」
 その様子を見ながら宝生が言った。
「寺に誰かいると知ったら、血眼になって探していただろうからな」
 言いながら、日々がポケットから指輪を取り出した。
「タッチの差だったわね。もし御国副代表が私たちより先に来ていたら、それは確実に彼に拾われていたでしょうから」
「今の映像は?」
「バッチリ取れたわ」
 宝生はいつの間にか取り出していたペン型の盗撮機を日々に見せた。
「さすが。性格の悪い」
「嘘も上手いしね」
「あとはこの指環と……、もう一つ状況証拠があれば御国千次を脅して本丸の場所を聞き出せるかもしれない」
 幽霊の所持品である指輪を得意気に眺めた後で日々は宝生に子供のような視線を送った。
「何よ」
「俺の仮説に付き合う気はないか?」
「もうどっぷり付き合ってるわよ」
「じゃあ問題は無いな。お前の仲間に、公安やCIAの真似事ができる人材はいないのか?」
 それは妙な質問だった。
「もっと具体的に要求を言ってみてください」
「自殺現場付近の足跡を調べてほしい。捜査関係者が大勢立ち入ってしまって難しくなっているとは思うが……」
「難しいなんてもんじゃないわよ!」
 素人が素人目線で簡単にプロに無理難題を要求したことに、宝生は腹を立てた。
「その現場はもう捜査員に荒されてしまっていることだし、時間も経ってしまっているから、それを確かめることは難しいわ」
「じゃあ、原っぱから寺に向かって歩いて行った足跡を見つけることならできるだろう」
 素人からの無理難題を、この世界を甘く見るなと一蹴することは可能なのだが、それはそれでプロとしての沽券にかかわる問題にもなるので、これ以上は躱したくないと宝生は思った。
「わかったわよ。ちょっと声かけてみるわ」
 承諾した後で宝生は今の依頼に疑問を持った。
 寺に向かって歩いて行った?
 その場に御国九十九がいたとか……?
 色々と考えながら寺を出ると、境内にはわかりやすくタイヤの跡が残されていた。それを目にした宝生が日々に話しかけた。
「副代表は誰かに指輪を探してくるよう命じられていたって感じだったわね」
「ああ。指輪の本当の価値に気が付いているのだろう。零の会を崩壊させるものになりうることにね」
 日々が楽しげに更なる想像を膨らませる。宝生はその想像部分を聞きたかった。
「あなたは一体どんな仮説を思い浮かべているの?」
「死人の数が足りない」
 言いながら、怪しげな目配せを送る日々のその心理を宝生はようやっと察知した。
「集まったのは九人だけではなかった?」
 宝生は日々の思考をそう読んだ。そして日々は軽く頷いた。
 寺に向かった足跡とはそういうことか。
「十一人いたはずなんだ。本当は」
 あっさりと日々は言った。
「どうしてそんなことがわかるのよ」
「自殺サイトを片っ端から探ってた。その中で本当に自殺を決行するような本気のサイトは少ないけどな」
「そうなの?」
「一緒に連れて行ってくださいなんてレスを返して、実際に決行日にその近辺のニュースを洗ってみても集団自殺なんて起きていないんだ」
「自殺したいなんて、そんな覚悟は誰も持ってなかったと?」
「それだけじゃない。一緒に死ぬと言っていたはずの俺が当日集合場所に来なかったせいで、思い止まったかもしれないじゃないか。みんなでやれば怖くないことも一人でやると怖いからな」
 これを聞いて、宝生は日々のことをほんの僅か見直した。
「それにだ、本当に集合していた自殺志願者たちが、そのまま連れ去られた可能性もある」
「自殺志願者を? 連れ去る?」
 ここで宝生は日々の仮説の壮大さに気付かされた。
 そうか!
 英雄死――!
「俺は心中を決行するとか息巻いているやつらの中で、この村の付近が集合場所になっている呼びかけを探していたんだよ。そうしたら過去のログにそれが残ってたんだ。呼びかけたやつも含めて賛同していたレスの数は十一人分あったはず」
「そして赤食村で実際に集団自殺は起こっていた、と」
「でも数が合わない。死んでいたのは九人。二人足りない。一度は呼びかけに応じたが当日になって臆した者が出たのだろうと思っていた。でもこの指環の存在と、あの御国千次がこいつを探しに来たという事実が俺にもっと面白い仮説を到来させたんだ」
「それは、どんな……」
 ああ、聞きたい。
 はやく聞きたい。
 それが宝生の本音だった。
「各自殺サイトを秘密裏に運営し、自殺志願者を募ってそれを連れ去る。それが御国千次の仕事だった。やつはその中から、英雄死に使える人材をスカウトしていたんだ」
 それが日々の思い至った仮説だった。
「どうして御国千次と英雄死とが繋がるの? それはいくらなんでも、強引よ……」
 だがやはり宝生の記憶に引っかかるのだ。
 かがゆうじ――。
「強引ではない。むしろそれ以外ないという証拠がこの指輪なんだ」
 日々は余裕綽々とそれを宝生に見せた。
「つい先日、英雄死を実行したものの、自殺する前にその身柄を押さえられてとっ捕まった間抜けが報道されていた。その人物の名は……」
「ああ! 加賀だ! 加賀雄二!」
 ここでようやく宝生の脳細胞が呼吸を始めた。 
 繋がってしまったのだ。点と点が。
「こいつはおかしな話なんだ。もし自殺志願者を鉄砲玉替わりに利用して自殺する前に一仕事してもらう、元凶悪犯を葬ってもらうという、いわゆる英雄死を計画的に行っている何者かがいたとすると、当然加賀のように失敗するやつだって想定していなきゃいけないはずだ」
「ええ。誰かがそんな大それた絵図を描いているのなら、しかも零の会を隠れみのにしてやっているのなら、その計画は緻密にして精細でなくてはならないわ。絶対に発覚してはいけないことなのだから」
「だからこそ、この世に未練の無い自殺志願者が使いやすかった。仕事だけやってそのまま死んでくれればそれでよし。当事者の死とは事の発覚を避けることのできる究極の手段だ。でもそれは同時に最も困難な手段でもある。死ぬことが前提の仕事なんて誰もやりたくはないだろうからな。だがすでに死を覚悟している人間を鉄砲玉に使うことができればどうだろうか……。これは実に秀逸なアイデアだ。そこがこの計画の肝なんだからな。現に今の今まで英雄死は英雄死のまま。十二件も発生していながら事の裏側は露見していない」
「でも、加賀だけは自殺する前に捕まってしまった」
「そういう失敗が起きることくらい想定しているはずだと言いたいのだ。そこがおかしい。もしとっ捕まってもただの模倣犯だと主張すれば問題はない。決行の前にそう指示をして送り出しているはずなんだ。でも加賀は、明らかに余計なことを喋っている」
「ああ、そうか。加賀は、名前が出ている。しかも逮捕されてすぐに出ていたわね」
「そうだ。捜査関係者が調べて探り当てたことではないということだ。実行犯が身分証明書などを持って事に及んでいるはずはないからな。加賀は自分で名乗ったに違いないんだ。どういう心境なのかは知らないが、計画者にとって幸いなのはそれ以上の情報が出ていないということ」
「でも、いつその葛藤が崩れるのか分かったものではない。だから御国千次は赤食村での集団自殺のことを吐かれてしまう前に、大慌てで関わり合いのある物証を処分しようとしてここに来た。ニュースの映像を見て加賀雄二の指に指輪が無いことに気が付いたのかしら」
「あるいは加賀千次が指輪を外してから実行しろと言い忘れたか。なんせ本人も気づかぬうちに指輪が外れてしまっていたのだからね。その指輪がこれ。ばっちり名前も入っている」
 宝生は大学時代から日々に抱いていた感想をこの時もまた想起してしまった。
 ――この男は合理と不合理が混在している。
 無根拠で理屈の合わない、勘のようなことに頼って行動を起こすくせに、それで手にする結果は合理的に納得できるものしか見当たらない。いつもそうなのだ。
 フィクションとノンフィクションの境目を言ったり来たりする。そんな男。
 科学の真理を追究したがる科学者、……ではなく魔法使い。
 それなら今回もまた最後には納得の出来る結果が転がってくるはず。宝生はそう信じていた。
「鉄砲玉に対する教育が不徹底だったのかしら」
 宝生は加賀雄二のことを思った。
「自殺志願者のスカウトと教育、そういった英雄死のシステム自体まだまだ未完成なんだろ。もしかしたら残された家族や近親者に金を渡す約束を取り付けていたのかもしれない」
「死者を金で釣ってたってこと……」
「死の間際のバスの中で加賀雄二だけがその「釣り」に反応したからこそ選抜されたとかな」
「そういえば、零の会には資金がたんまりあるって話だったわね」
「加賀雄二はそもそも英雄死には向かない人材だった。だが金に釣られたそいつを採用してしまった。選考基準が曖昧なまま人を採用すると後で困るのはどこも一緒だ」
「企業が崩壊する序章みたいね。てか、それもこれもあんたの仮設でしょ?」
「うーん、それでもやつらが焦っていたのはなんとなくわかるだろ? 使えないやつを採用して失敗したことも、その後の千次の後手後手の対応も、どれもやつらの焦りを示しているよ。その焦りの理由こそまだわからんが、なんだか面白そうだと俺は言いたいのだ」
 日々の食指が動いたその疑問は面白い以上の理由がありそうだと宝生は感じた。
 空き地に停めてあった車に辿り着くころにはとっぷりと世界が闇に包まれていた。街灯が異様に遠い。
「まだ急げば今日中に自宅に戻れるけど?」
 シートベルトをかけながら宝生が同じ作業をしている隣の男に確認した。
「いや、あいつが家にいる時に俺が玄関に出現してしまうとゲーム断食が嘘だとばれてしまう」
 帰るなら翌日妹が出勤してからだと日々が言う。
「さすが首席様。賢いわ」
 その日は市内のホテルに宿泊し、翌日の昼頃には日々は家に帰された。

 令和四年7月13日。

 自宅に送られた日々は自室のドアにかかってあるホワイトボードの「ゲーム断食」という文字を消した。そして点けっぱなしにしていた部屋の電灯も消した。靴の泥を落とした後で下駄箱に突っ込んだ。ポケットに入っていたレシートも丸めて捨てた。とにかく色々と証拠隠滅を図った。
 その後は山中を歩き回った疲れが襲ってきて、日々はソファに吸い込まれるようにして顔から突っ込み、そのまま意識を失った。
 目が覚めると月見がいた。呆れた顔の妹が兄を見下ろしていた。
「ゲームはクリアしたわけですか」
 彼女は挨拶代わりの嫌味を吐きつけてきた。
 日々はキリッとした顔を向け、こう答えた。
「ああ、大仕事だったよ」
 これもまた挨拶代わりだった。
 そして嘘は吐いていない。

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