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破壊の女神⑧

 8

 ドアを開けると、そこにはテレビで見たままのその人がいた。アラフォーには見えない中年の女性。
「あら、テレビでお見かけするよりスマートなんですね」
 逆に向こうから言われてしまった。
「失礼します」
 僕は勧められた椅子に座り、弦吾君はドアの前で待機していた。カメラマンや編集者もその辺の位置についている。
 部屋の中はテーブルクロスやカーテンのレース感がやたらとよく目につき、四方八方からエレガントな雰囲気が顔を覗かせていた。テーブルの上には西洋の花が生けてあり、紅茶の注がれたティーカップにもこだわりが感じられた。室内をパッと見ただけでこの部屋の主がどのような人生を求めているのかがよくわかる。洋風のエレガントさに高尚さを見出す人は結構多いのだ。我は崇高なる知識人であり、世間の平均値よりもずっと徳の高い存在である。自分は健全で清廉潔白な存在であり、社会の側は無知で汚らわしい存在である。中高年の女性によく見られる性向である。
 あまり綺麗で気品ただよう部屋を見せつけられると、僕はそこに住む人の「嘘」を感じてしまうのだ。この状態は決して彼らの「ありのまま」ではないのだと。
 僕の妻の部屋など、僕らが片付けをしないと彼女の動いた軌道を表すような散らかり方で部屋中が本やら筆記具やらで散らかっているのだ。それに、恥ずかしげもなく引き出しの中にびっしりとお菓子を貯めこんでもいる。真の「ありのまま」とはアレのことを言うのだろう。
 いちいち部屋を見ただけで住人のあれこれを想像してしまう僕は、音々さんのように嘘の無い振舞いで苦労させられることの方が気が楽なのかもしれない。
 今はでも、この作られたエレガントさは本人の内なる性質とは何ら関係の無いものであると信じよう。そうでないと対談などできやしない。
 セミロング気味のふわっとさせた髪形に、真っ白のカーディガン、黒いブラウス、黒いスカートという取り合わせ。恐らくは彼女のお気に入りのスタイル。アラフォーには見えない若々しさは感じられるのだが、化粧は濃いめなのかもしれない。むしろそれでアラフォーらしさを打ち消しているのだろう。中年と妙齢。そのギリギリのライン上。
 紅茶の置かれたテーブルの椅子に僕が座ったところで、早速対談は開始となった。編集者がそれではレコーダー回しますと一声かけ、僕はそれをきっかけに取り敢えずの挨拶を交わした。僕の斜向かいに相沢百合子が座っている。
「どうも、初めまして」
「こちらこそ、初めまして。夢路先生には前々からお会いしたかったんですよ」
 猫背気味の僕とは違い、相沢さんは椅子に座っているだけでも行儀の良さが際立って見えていた。彼女の背筋の伸びが僕を後ろめたくしている。威圧とは違う圧迫感。
 ドアの前では弦吾君がニヤニヤしていた。僕の卑屈さがそう見せているだけなのかもしれないが。
 ――助手として俺も連れて行くこと。
 義弟が今と同じニヤけ面でそれを提案してきたことを僕は思い出した。あれは講演会が無事終了した直後のことだ。
 会場となった大学附属の厚生会館の後片付けをしていると、講演を見にきていた対談の責任者、つまりは雑誌のライターが対談場所が変更になったことを伝えにきたのだ。
 当初はこじんまりとした喫茶店を借り切ってやる予定だったのだが、相沢氏本人がどうせならうちでやりませんかと、自宅で対談することを提案してきたのだという。僕としてはそれなら嫌ですと言うこともできず、ましてや向こうの御自宅にお邪魔するからといって別に嫌だということもないので、はい分かりましたと了承するほかなかった。
 この時、パイプ椅子を片付けるふりをしながら適当にサボっていた義弟が運悪く近くにいて僕らの話を聞いていたのだ。ちなみに僕は一労働力として一生懸命真面目にパイプ椅子を運んでいた。
「兄貴、こりゃ決まりだね」
 弦吾君は背後から声をかけてきた。
「弦吾くーん、パイプ椅子一脚ずつ運んでるの君だけだよ?」
 僕はわざと大声で言った。
「おいおい兄貴、俺にそんな態度とっていいってのか?」
 余裕ぶってはいたが、マジで慌てていたのを僕は見逃さなかった。とても面白かった。
「え? いいんじゃないの? 僕、一応君の後見人だし」
「ほうほう。そうきますか。じゃあ、今日の夜さっそく姉ちゃんにこのことをお知らせするとして……」
 僕はその場を去ろうとする弦吾くんの腕を慌てて掴んだ。両手に持っていたパイプ椅子が床と激突する音がしたが知ったことではない。
「え? 何、弦吾君、どういうこと? 何をどうするって?」
「夢路さーん。大学の備品を床に叩きつけて憂さ晴らしするのはやめてくださーい」
 大声で仕返しされた。
 僕は叩きつけたと目された二つの椅子を抱え、再度悪しき義弟に詰め寄った。
「音々さんに、一体何を言うって?」
「そんなに慌てるってことは、ちょっとはそういう自覚があるってことじゃん」
 人間の心理の溝に埋まっている何かを看破する能力は、残念ながら悪しき心の持ち主の方が高いという不条理。
「ちょっと何言ってるのかよく分かんないです」
 思わず芸人さんの持ちネタを口走ってしまうあたり、相当焦っているのだ。
「昨日テレビでサンドウィッチマンの漫才を見てたことを差し引いても、ちょっとくらい何言ってるのかは分かるでしょう」
 実に楽しげな表情のカエルが慌てる僕の目に映る。
「え? えーと。僕が仕事で相沢さんの御自宅にお伺いするって話かな。仕事で」
 僕は労働であり強制であるということを強調した。
「仕事だと思ってるのは兄貴だけだってことを、今日帰ったら姉ちゃんにお伝えしようかなと……」
「弦吾君!」
 僕は二つのパイプ椅子を片手で持ち上げながら、もう片方の手で弦吾君の手を掴んだ。
「ちょっと話そうか! 君の誤解が解けるまで!」
「なんで俺だけが誤解なんだよ。兄貴と同じこと考えてたはずなのに」
「いやいや、何言ってるか分からないな。なんだい、僕が考えてたことって」
 弦吾君の言うとおり、僕はこの時点で二人の意見が一致していることに気が付いていたのだが、絶対にそれは自分の口から言いたくなかった。
「そりゃもちろん、本が売れて有頂天のオバサンが、今度は男を漁りにきたってことだよ」
 弦吾君は「男」という箇所で思いっきり僕の顔に人差し指を突き立ててきた。
「ただ対談する場所を変更してきただけじゃないか」
「その変更先が自宅って、もうその気満々じゃないですか。兄貴は飛んで火にいるアホボケカスだよ」
 ひどい言われようである。
「より親密になるために家に男を上げんだよ、女性(にょしょう)ってやつは」
「にょしょう……」
「で、兄貴はそれに気付いていたくせに断らなかったと」
「だから、断ったら角が立つんだってば!」
「対談はやるとして、場所の変更だけ受け入れなかったらよかったじゃん」
「そんな要求をするほど大事でもないでしょ」
 一体これは何の板挟みなのだ。何に焦り何に困っているのだ僕は。
「ここで姉ちゃんに黙っていたとしても、いずれカンナあたりから話は伝わっちゃうよ。妻に明かしていない男女の逢瀬がこっそりと伝わったときの破壊力たるや、もう……」
 実に実に嫌なことを言ってくるこのカエル男。しかし一理どころか七理くらいある話だと僕は思ったのだ。
「じゃあ今日の夜、僕の口から音々さんにお伝えするよ。それで万事解決だ」
「どうしてわざわざそのようなことをお知らせしてくるのですか?」
 全然似てない音々さんの声真似。だが僕はひるんだ。
「兄貴、姉ちゃんに常識を説いても無駄だということはよく御存じのはずだろ。たとえ兄貴が正当な主張をしたところで、あの人の頭の中でそれがどういう結論に生まれ変わるのかは神ですら知り得ないことなんだから。これは浮気ではないですよという主張も回り回って、自分の夫は一夫多妻制を重んじる稀なタイプなのだとハチャメチャな解釈に行きつく可能性だってある人なんだからな」
 何てことだ。一見これは破綻した推理なのだが、その対象となる人物があの人であるならばものすごく理解できてしまうのだ。
「かといって兄貴は隠し事がド下手くそ。なので黙殺という選択肢も危うい。今兄貴は進むことも戻ることもできない切羽詰まった状況に陥っているということさ」
 大げさな極論のはずが大げさに感じないのが、この大荒れの台風の目に音々さんという大いなる存在がいるからだろうか。
「僕は、ではどうすれば……」
「まずは俺の分のパイプ椅子を運ぶこと」
「あ、ああ」
「それと……」
 僕は何故か了承してしまったのだ。
「助手として俺も連れて行くこと」
「あ、ああ?」
「監視役を一人立てるだけで問題の全てはクリアされるってことさ。だって俺は被害者たる妻の弟なのだし」
 言うに事欠いて被害者とは。
「いやいや、それなら……そうだよ!」
 僕は思い出した。
「別に向こうのご自宅で二人っきりで対談するわけじゃないんだから。ライターもカメラマンもいる。やましいことなんか一つもない!」
「馬鹿だなあ。仕事が終わればサヨナラする奴等なんか監視役にならないだろ。仕事外のところで兄貴とオバサンの間に何かが無い保証はない。だから俺が監視役を買って出てるんじゃないか。俺ならその日いってきますからただいままでずっと兄貴と一緒なんだから。俺の口から姉ちゃんに明日兄貴と一緒にオバサンの家に行くって言や、これは済む話なんだから――」
 焦りがあった僕はあの時彼の提案を受け入れてしまった。
 冷静に考えれば突っぱねてもよかった提案だったが、僕は音々さんに誤解されることをひどく恐れていたのだ。彼女に対し一度も裏切ることのない夫でいたかったからだ。
 音々さんには味方が少ない。だから僕が裏切るわけにはいかないと強く思うのだ。
 それにしてもあのドアの前にいるカエル男。今思えばカンナさんと同じ動機でついてきただけなのだろう。面白い見世物を観たい。ただそれだけ。
 ただそれだけのためにわざわざあんな駆け引きを仕掛けてくることに、何故か僕は情熱めいたものを感じて感心してしまうのだ。
 どうかカエル君を喜ばせる展開にはなりませんように。
 僕は平常心という文字を脳裏に刻みつけて対談に臨んだ。
 まず薄っすらと紅を引いたオバサンこと相沢百合子の唇が微笑の形のまま上下した。
「これから先生のことはなんとお呼びすればすればいいのでしょう。夢路さん? 夢路先生?」
 気軽な感じでそう話しかけてきた。気品を保ったまま、気軽さを失わない。そのラインを心得ている人だと思った。海千山千。百戦錬磨。色んな言葉が不意に浮かんできた。
「僕は先生、もしくは相沢先生と呼ばせて頂きますので、先生の方もどうぞご自由に。呼び捨てでも、君付けでもさん付けでも僕は構いません」
 できるだけフランクな笑顔で対応した。心の中では最も距離のある「先生」か「夢路先生」と呼んでくれと祈っていたのだが、それは少々生意気であるか。
「そう。じゃあ、夢路さんと呼ばせてもらうわね」
「ご随意に」
 何故かそう決められると「先生」呼びに対する願望が生意気とも傲慢とも思えなくなるこの不思議。「夢路さん」を嫌がる正直な自分がいるのだろう。
「私ね、夢路さんの書いた本を何冊か読ませていただきましたの」
「ああ、それは嬉しいです」
「それと、テレビにお出になっている先生の姿も拝見いたしました。それで感じたのが、このお若い先生は今時では珍しいくらいに純粋な心を持っていらっしゃる方だなということです」
「え? 僕がですか?」
「自覚が無いのがまさにそうですよ。裏表のない人。嘘を吐かないというより、嘘を吐けない人なんですね。ですので、とてもお人柄の良い印象を持っているんですよ。先生の書いた本を読むととても賢くて知的な方であることも分かります。ですから、いつかお目にかかりたい思ってたんですよ。今日それが叶って本当にうれしいんです」
「いやあ、そんなことないですよ。人格的にも学者としてもまだまだ修行中の身です」
「あら、御謙遜。夢路さんは御自身の社会的地位を御存知ないんですよ。わたくし、夢路さんのことを悪く言う人に会ったことがないですもの」
 義弟、義妹、カンナさん。僕はほぼ毎日会っている。世界は広いということだ。
「社会的地位なら先生が今一番じゃないですか。女性代表。女性の代弁者。みんな先生のことを生きる社会正義みたいに思ってますよ」
 僕が過剰に褒めちぎると、彼女は手を振って否定してきた。気品は崩さずゆったりと。
「そんなことないですよ。わたくしはただ許せなかっただけです。女性だけが下手を見る世の中が。それでその想いを本にしてみただけのことです」
 僕は世間話を長々するよりもさっさと本題に入りたかった。余計なことを話さず必要な仕事だけを済まして帰る。この場はこれに尽きる。
「先生の本、僕も読みました」
 僕は終わりの始まりと言わんばかりに、対談の主目的たる『未来への不安』に関する議論へと歩を進めた。
「当たり前のことが分かっていなかったんだなあと、反省いたしました。何か叱責にも似た罪悪感を先生の著書からは受けました。これは僕が男だからですかね」
 すると相沢さんは笑顔を自然と消し、二度大きく頷いた。
「あの本は女性よりも、私は男性の方にもっと読んでほしいんですよ」
「そうでしたか」
「女性はあの本を読んでも、結局のところ共感しかしません。女性だけが読んでも世の中は何にも変わらないのです。私の本で世の中を変えるとなると、その対象となるのは男性側の意識にほかなりません」
「たしかに、あれを読むと女性に対する配慮の意識ががらりと変わりますね。むしろ今までこんな苦しんでいる人に何も手を差し伸べてこなかった自分を恥じるくらいの」
「夢路さんのような若い男性の方にそう言ってもらえるととてもうれしいです。例えばどのあたりが一番気になりましたか?」
 本当に嬉しそうにこれを訊いてくるのだ。ということは僕の言っていることを信じて、具体的な感想を求めているということ。
 予習が役立つ時が来た。
「まず大前提の部分ですね。女性は妊娠と出産のために長期間社会生活からリタイアすることを余儀なくされてしまうということ。あるいはそういう可能性を孕んだ、敢えて悪い言い方をするならば社会にとって使い勝手の悪い人材であること。その弊害の種を持って生きるしかない女性は男性側が思っている以上に生きづらい存在なのでしょう」
「はい。世の男性にはそのことを是非覚えておいてほしいです。この国の女性は常にマイナスからスタートしているということ。ハンデを背負って生きているということ」
「問題は、男性側にどれほど丁寧に女性の生き方を説明したところで、絶対にその全てが伝わることなど無いということですね。せいぜいちょっとくらいなら理解できるといったところでしょう。何故なら男性は男性としての人生を何年も歩んできているからです。女性側の気持ちを100%理解することなんてできないんですよ。それができるのは同じ女性だけだということ。少し悲観的かもしれませんが……」
「そうでしょうか」
 やや食い気味に反論されてしまった。
「何度も何度も世の中に訴えかけていけばいつかは理解してくれると私は信じています。私の本を読むことで男性側の意識も少しは変化してくれるものと私は思っています。だって、夢路さんがそうではないですか」
「……そういえばそうですね」
 などと言いながら僕はやはり悲観していた。この女性には男性側からの視点を考慮する意識は無いのだということが判明したからだ。彼女の本を読んでみてもそれはなんとなく伝わってくるものなのだが、それが今確信に変わった。一つの視点からしか物事を見ない作家は、それでもハマればヒットするのだ。そして当然ながらハマらない人間も多くいる。こういう本を読んだ男性の半分はきっと色々考えさせられるのだろうが、もう半分はおそらく反感を抱くのだろう。それは書き方が女性側のみの視点に終始してしまっているためだ。
 だがそこを突いて議論を深めようとしても、そういう視野の持ち主とは大概議論にならず、何より感情が先に出てきてしまい面倒臭くなることの方が多い。それだからこそ一方向の視点からしか物事を描けないのだろうが。
 これでは対談の意味が無い。書いてあることをただ確認し合い、肯定し合うだけの対談に何の意味があるのだろう。
 ここで僕は弦吾君がゾーン状態になってまで絞り出した例の反対意見を入れ込んでみようかと思った。
「しかし、女性が妊娠と出産のため、子育てのためといって長期間仕事を離脱してしまった場合、一労働力に離脱されてしまう職場の人間はどうなってしまうのでしょう。先生の言い分も分かるのですが、もし自分が妊娠して職場を離れることになってしまったらそのしわ寄せを食う同僚たちに非常に申し訳ないと思ってしまいます」
「それは、どういうことでしょうか?」
 目つきが彼女の感情を物語っている。この時点でかなりの警戒色を出されてしまった。
「昨今の日本の情勢から鑑みて、どこの職場も常に十人でやる仕事を五、六人くらいで回しているのが実情です。その中の一人、あるいはそれ以上が長期に亘って職場を離れるとなると、残された人間はそれこそブラックと呼ばれる状態になってしまうのは必至です。いつか戻ってくるということを理由に人員の補填など企業は考えてくれません。女性の出産前と出産後のいわゆる産休は法律で保障されており、その後も育児休業として最大二年延長することも可能です。女性側が安心して二年も職場を離脱できる反面、残された側は二年間過労を強いられることになるのです。保障されている側と保障されていない側。この待遇の差は仕方のないことと、誰もがそうやって受け入れてくれる状況がこの国で確立されているとは思えません。さらには女性が働きやすい社会づくりの一環として、企業の側もどんどん女性を受け入れている状態です。これは全然悪いことではないのですが、多くの場合、企業側はそういうキレイごとを受け入れるだけ受け入れて、それにより発生するマイナスの後始末は全て現場の人間にやらせているのです。産休で人が減っても現場の人間だけでなんとかしろという無言の圧力です。企業側にそれをカバーする余裕などないという悲しい事実もあるでしょう。強制的な女性優遇。それも間違ってはいないのですが、人間の感情はそう簡単なものではありません。納得の無いところで無理を通そうとすると必ず問題が生じます。過労により身体を害する人もいるでしょう。このような問題に対し相沢先生はどのようにお考えですか……」
「夢路さん」
 僕が質問を完全に出し終わる前に声を重ねてきた相沢さんの感情は、どうやら説明不要らしい。発言者の僕に怒りの全てをぶつけるかのようなその非難の眼差し。
「もし今夢路さんが仰ったような問題を抱えている企業があるとしても、そこにいる女性の休職者には何の落ち度もないことです」
「ええ、もちろんです。それでも……」
「そんなものはみな逆恨みと同じです。相手にする必要などありません。そのような状況を放置している企業側が悪いのです。わたくしにしてみれば、いちいち問題にするようなこととは思えません」
「そうは言ってもですね。実際に逼迫している状況があり、その状況の引き金となっているのが女性の妊娠や育児等による休職という事実がある限り、女性の側としても座視できない問題なのでは……」
「それは間違っているわ!」
 急に真剣な顔になり、相沢氏は声を荒げた。僕はテレビの討論番組で何度かこういう光景を目にしたことがあるなあと思っていた。
「そうやって妊娠することに申し訳なくなる必要など一切ありません! 子供は日本の未来そのもの! 子供がいなければ国は滅びます! そして子供を生めるのは女性だけです! その能力を重宝したり尊重したりすることはあっても卑下し厄介がることなど一つもありません! 夢路さん、その場合は迷惑がる同僚が間違っているのです! それを受け入れなければ成立しない社会なのです!」
 まあ正論なのだけれども、正しい事のみを採用できるのは機械や動物であり人間ではないということを分かっていないのだなあとも思う。人間はいろんな視点や都合で生きているのだから、そこでは一つの正しさなど意味を成さないのだ。公共の利にも益にもならない優先事項がみんなにあるのが人間なのだから。
 取り敢えず相沢さんが他者の視点を考慮しない人間というのは確定だ。そんな人の意見を擁護するのも嫌だし、正直に反論して感情論で捲し立てられるのも厄介である(まあ世間ではそういう姿が好印象なのだが)。僕も弦吾君みたくゾーンに入ってしまえば弦吾君張りの暴論も言ってやれるのだが、そんな勇気など僕には一片も無いので、正直な感想を黙殺して選択肢Aの同調でいこうかと思う。
 ああ、相沢さんと同じく他者の視点を一切採用しないはずの音々さんと話している方が気が楽なのはどうしてだろう。
「夢路さん。結婚し妊娠した女性のみなさんには毅然と、何の後ろめたさも感じることなく職場を離れていただきたいと私は思っています。そんなことで気後れしている女性には、むしろ堂々と休職するのが当然なのだということを是非とも知っていただきたいです」
「なるほど。ですよね」
 などという適当な相槌が脳を介さず口から出てしまうほどに、僕は心を閉ざしてしまっていた。
 相沢さんの言い分は現実に即していない。どこか理想論に近いものがある。それもすべて女性視点からの理想論、いや、感情論だ。
 妊娠して長期離脱することになった女性が堂々と、何の気遣いも無しにそこを去った時に実際はどうなるのかの考慮が相沢さんには一切無いのだ。残された側の感情を一切配慮していないその考え方。そうすることが実は正しいのかもしれない。その女性は何も悪いことをしていないのだし、子を生むということは国の未来を守ることにもつながることなので、むしろ誰からも褒められるべきことのはずなのだ。
 しかし現実そうはなっていない、という問題があるのだ。
 たとえ正しいことだとしても、残される側はどういう感情を抱いてしまうのか。それを分かっていないのだ。
 僕はとても重要な問題だと考えている。下手をすれば殺人事件にも繋がりかねない事案であると。
 出産と育児を最優先する社会は正しいし、そこを目指すべきではある。しかし現実にまだこの国はそうなってはいないのだ。全然啓蒙が済んでいない。まだまだ過渡期にある。人々が女性の職場離脱をきちんと理解してくれる。そんな社会にはなっていないのだ。
 その逃れられない現実をキレイごとの理想論で煙に巻いて、自己満足の正義を誇る人を僕は受け入れたくはない。
 だが残念な気持ちも少しはある。せっかく現実的な急所を突いてくれた弦吾君の意見だったのに、こんな結果に終わってしまうとは。これをきちんと論破すれば、論破はできなくても理解のできる反論を見せてくれれば、感情論だけの著書の欠点を穴埋めしたことにもなり、もっと著者の論が深まるというのに。もったいない。
「結婚に関しても女性は相当気を遣ってますね」
 僕は嘘の上塗りを避けるため話題を変えた。
「ええ。世間の目を気にし過ぎているのです。日本に昔からある結婚観は今の女性の人生を大いに邪魔してしまっているのです。早く結婚しなくては。そんな焦燥の中で選んだパートナーなど、きっと長続きしないのです。私もそうでした」
 しまった。やぶへび。
「若い頃は親戚からご近所さんまで、あそこの相沢さんちの娘さんはそろそろいい年なんじゃないとよく噂していたようです。当時の私が住んでいた地域の女性観として、女性は就職よりも結婚が優先でした。女性の大学進学など道楽と思われていたのです。私も適齢期に入ると、どうしてなのか、何かに対し申し訳ない気になってきて大急ぎでお相手を探してしまったのです。その結果、披露宴まで催した結婚相手とは五年で離婚することになりました。シングルマザーとなってからは苦労した記憶しか残っておりません。娘と二人、爪に火をともすような生活をしてきました。あの子にも随分苦労をさせてしまいました。今でもそれは申し訳ないと思い後悔もしております。私は娘の世代にはそんな邪魔くさいだけの不自由な結婚観などなくなっていてほしいと思っております」
 彼女は真剣な眼差しで喋り続けた。弦吾君ならこの真剣な訴えを自己正当化の一言で片付けてしまうのだろうか。僕もほんのちょっとそう思っているのだが。
「たしかに、今の時代にそぐわない価値観ですよね。女性は結婚しなければ生きている意味は無いみたいなあの感じ」
「ひどい考え方です。男尊女卑をまだこの国は引きずっているのです」
 ぴしゃりと彼女は言った。目の前の僕ではなく、世の中全体に毒を吐いているような感じだ。
「そういう考え方を助長しているのは意外と高齢の女性だったりするんですけどね」
 僕がそう言うと、意外なまでに相沢さんは同意の反応を見せた。
「そうなんです! 夢路さんはきっと分かってくれると思ってました! こういう昔ながらの女性観や結婚観を支えているのは、実は男性側ではなく、古い時代を生きた女性の方なんですよ!」
 ぐぐいと距離を詰めてきた相沢氏。理解してくれたことがとても嬉しかったのだろう。これは僕にとってやぶへびだったかもしれない。
 僕は何かを喋らないといけない空気に押され、続けて口を開いた。
「それでも彼女たちは彼女たちで、自分たちが苦労を強いられてきたこと、一生懸命になって戦ってきたことが間違っていたなどとは思いたくないし、やがてその歴史は彼女たちだけの勲章になります。たとえ間違っていたことであっても、自分たちが受け入れてきたものを冷静な視点から否定できる人間は少ないんですよ。逆にそれができる人間は尊敬に値します」
 冷静な視点から自分を否定できる人間に対する賞賛は、それができない人間への非難につながる。僕がこの賞賛に込めた相沢氏に対しての皮肉に気付いているのはこの場では弦吾君のみかもしれない。
 相沢氏はこれに毅然と抗議してきた。
「しかし夢路さん。間違っていることは間違っています。その悪しき慣習によって苦しんでいる現代女性が大勢いるという事実は否定できません。昔世代の女性の全てを否定することはありませんが、昔の女性たちがその娘や孫の世代に押し付けているような困難しか生まない風習など、もはやこの国に必要ありません」
 厳しい言葉で彼女ははっきりと非難した。
 僕が思うのは今と昔、どちらが女性にとって幸福なのかということ、女性側が結婚を最重要事項に思っていた昔は離婚率は低かった。離婚も独身も最重要事項に反する「恥」だったからだ。一方、女性の権利が向上し、その分結婚というものの価値が下がり、離婚率が増加し、シングルマザーが貧困に喘いでいる現代。一体どちらが不幸でどちらが幸福なのだろうか。
 本来ならばそういうことを議論したいのだが、この人とは絶対に無理だ。
 おそらく、彼女に結婚を急かした親戚とやらもご近所さんとやらも、昔世代の女性の一員なのだろう。だから相沢氏はこんなにきつくその人たちを非難しているのだ。
 自己正当化。もはやこの人の九割がそうなのかと思えてきてしまう。
 僕はそろそろ弦吾君考案の反対意見を入れ込んでみようかと思った。お互いがお互いのイエスマンになってしまう対談記事など、社交辞令と予定調和の廃棄物でしかない。そう表現していたのはカンナさんだったのだが。
「女性にとって悪しき慣習があるなら、同時に女性に有利になる慣習もあるはずです。女性だから許されていること、あるいは男性だから許されないこと。男性、女性、それぞれにプラスとマイナスの偏見があると僕は思います。女性としての女性観を語るなら、良い面、悪い面、両方取り上げるべきだと僕は思います。そして同時に日本における男性観の良い面、悪い面も取り上げて平等に論じるべきです。そうしないと平等じゃないところで正しさを主張していると思われかね……」
「いいえ、夢路さん。そんなことは考える必要がないことなんです」
「え?」
 考える必要がない――?
「ええ、もう、その点に関しては圧倒的に女性が不利です。それは間違いないことなのです。なので夢路さん。そのことに関してはすでに不平等なのです。だからこそ全国の女性が悲鳴を上げているのです。この訴えの数々が何よりの証拠です」
「それでも条件を平等にして論じることに意義が……」
「残念ですが、夢路さん。男性側の不利だと思っている点は女性側からしてみれば大したことではないことが多いのです。そして女性側の不利な点は男性側にはまったく気付かれない、辛く厳しいものが多いのです。条件が同じになることはないのです」
 長く続く感情論を我慢して話を聞いて、最後に少し反対意見を述べてみると議論する気もなく一方的に話を打ち切られてしまう。それは男性になってみないと分からないことであるはずなのに、説明もなく決めつけて否定してしまう始末。
 弦吾君の反論は興味深かっただけに非常に残念だ。
 こういった感情論での鉄壁を突破するのは非常に難しい。説き伏せるためにはまず相手にこちら側の言い分を聞き入れてもらう必要があるのだが、彼女のような人はそこがまず無理なのだ。文字通り聞く耳を持っていない。戦う前から負け試合確定のようなものだ。
 少なくとも僕ごときに彼女は落とせない。
 それが少し悔しい。いや、かなりストレス。
 相手の正しさすらシャットアウトしてしまう人は、相手にしない以外に対症療法が無いのだから。
「ええ、そうかもしれませんね」
 情けないがとりあえず無難な受け答えで済ませる。ゾーン経験者のカエルがいかにもな冷笑を見せてきたのは、僕が相沢さんの意見に同調したことへの抗議のつもりなのだろう。
 続いて話はシングルマザーの項に移った。先ほど話に出てきてしまったので、触れないわけにはいかなくなってしまったのだ。
「十年ほどの間で一生分生きた感覚でした」
 相沢さんは悲しげな表情を浮かべ、僕に何かを訴えかけてきた。その何かを受け取ろうとは思わないのだが。
「当時まだ娘は四つになったばかり。仕事と家のことと娘の面倒、全て私がやらなければいけませんでした。この無理難題を押し付けられて分かったことは、たった二十四時間でこれらのことを全て済ませることは実質不可能だということ。女手一つで子供を抱えながら生活を維持していくことはそれほど困難なことだということです。水商売をやっているシングルマザーが我が子に対する監督不行き届きで学校側から注意を受けることなど、今の世の中ざらにあることです。ああいうのを世間様は物凄く厳しい声で叩きますよね。しかしシングルマザーがそうなってしまうのは仕方のないことだと私は思うのです。元々不可能なオペレーションを完璧にやり遂げろと言われているようなものだからです。どうしてその親は子供をほったらかしにしていたのか。どうしてその親は水商売という特殊な職種を選んでしまったのか。選ばざるを得なかったのなら、それはどうしてか。誰も目を向けないところに私は彼女たちの絶望の声を聞いたのです。私は地獄のような日々の中、常に思うことがありました。独力のみで自分と子供の生活を維持してゆくのは不可能に近いことだと」
 神妙な表情の相沢氏が更なる苦労話を語り出した。
「シングルマザーにとって一番の問題は収入です。一人で自分と子供の生活を維持できるほどの収入を得続けなければなりません。つまり仕事です。一定以上の月給プラス安定していること。これだけでも子持ちの女性にとっては非常に難しい条件なのです。そもそも子持ちという時点で労働力としてはマイナスです。大卒でもなく資格もない女性は水商売に走るよりほかありません。私も夫と別れた当時は必死で会社員の口を探しました。多くの企業は女性に優しい職場を謳っているのですが、本当に優しかったところなど一社もありませんでした。働き口があったとしても、それは給料の低いパートナーやアルバイトがほとんど。とても子一人養うことのできる収入は得られません。私は途方にくれました。もしかしたら同じ状況で心中を考えてしまう親子がいてもおかしくないと思いました。子持ちの親は厄介がられる社会なのです。どこへ行ってもそうでした。ですが私は思うのです。子持ちの親こそ保護しなければいけないのではないかと。そこには単純に生活できていない人間がいるのだから、そこに手を差し伸べるべきなのです」
「相沢さんは確か、塾の講師をなさっていたんですよね」
「ええ、そうです。ですが、とても私と娘が最低限暮らしていける収入には届きませんでした。他になかったから仕方なくそうしたまでです。しかしそうなると、あとはもう生活のレベルを下げるしかなくなります。衣食住、どれをとっても人間らしいものの無い生活。数年前まで私もそこにいました。本当に、毎日が大変でした。毎晩不公平を恨み歯を食いしばって寝ていました」
 相沢氏の拳に力が入っていることに気が付いた。僕はそれの期待に応えるような問いかけをすることにした。
「相沢先生のようなシングルマザーの方たちは一人で仕事も子育てもやらなきゃならない。それを一人の力で完璧にこなすなんて不可能と仰りましたけど、それだとやはり子育てという面が、先程の水商売のシングルマザーの例のように疎かになってしまうこともありうるのではないですか」
「ええ。それはですが不可抗力に近いものがあるのです。独力で全てを賄うことができない以上、それは防ぎようのない事でもあるのです。だからこそシングルマザーに対する適切な支援と世の中の深い理解が必要だと私は訴えているのです。かつては私も何度となく泣きを見ました。仕事が忙しいせいでネグレクトを疑われたこともありました。懇親会にも出席できず、ママ友と呼ばれる隣組社会に娘ともども睨まれる日々を送ったこともありました。娘がクラスメートとケンカした件で学校に呼ばれた時も、ほとんど善悪の価値観や真っ当な理由など無い子供のもめごとであるはずなのに、シングルマザーであるからと私が元凶のような扱いを受けたことも何度もありました。我々はそういう目で見られるということです。これらは全てシングルマザーという存在に対する不理解によるもの。今と違い、当時はもっと理解が足りなかった。ただのダメな女扱い。味方になってくれるママさんたちは一人もおらず、学校も私を不安視、疑問視するばかり。あの頃は本当に一人でした」
 この後も永遠とも思える苦労話はずっと続いた。これは対談ではなかったのだろうか。僕はふとそう思った。さっきから自宅に招いた側だけが饒舌に話し続けている。
 この苦労話こそ自己正当化の発露なのだろう。
 自分が正しかったと思いたいのだ。自分が苦労させられたのはそこに間違った世の中があったからで自分自身には何の落ち度もない。間違った世の中に不満を持ち不平を抱いていた自分が正しいのであって、自分は何も間違っていない。
 この感情を昇華させると、やがては自分こそが正義だという勘違いも起きるのだろう。それが今の相沢氏ではないだろうか。
 とにかく彼女の苦労話及び自慢話はまだまだ続いた。
 いちいち同調の反応を続けるのも飽きてきた頃、注意が散漫になった僕の目に弦吾君の僕以上に退屈そうな顔が映り込んだ。
 僕は強制的な同調に対する反抗心からか、弦吾君がゾーン状態にあった時の発言が脳裏によみがえってきた。
 曰く、収入が減って困るのが目に見えていたくせに何故旦那と別れるなどという愚挙を犯したのか。離婚理由が慰謝料の請求できない薄い理由であるなら、我が子の為にもそれは我慢できることではなかったのか。結局は自分の感情を優先して被害者ぶっているだけなのではないのか。
 ダメだ。絶対にこれは言えない。すまない弦吾君。僕も命は惜しい。
 二度も反論を試みたことでさすがに僕も学習している。あの二つで無理ならばこれはもっと無理だ。これ以上に彼女の感情を逆撫でする文言が見当たらない。間違いなく逆鱗に触れる。
 さらに曰く、子供の面倒を見るのが困難になることを知っていたくせに何故旦那と別れるなどという愚挙を以下同文――。
 無論、そんなことも言えるわけがないのだが。
 ああ、言えないことが多すぎる。
 彼女はきっと僕の反論を反論として受け止めてくれない。議論がしたいという僕の願いは最初の一文字すら聞き入れてくれない。確認作業もしないまま「敵」として破壊してしまうのだ。言うだけ無駄だと、僕がそう思い込まされている。相沢氏による見えざる言論統制。
 これが次第にストレスになってくる。フラストレーションが膨張していく。一辺倒な意見というのは宗教に近いものがあってあまり好きになれない。やんわりでもいいので反論を聞き入れてほしい。特に今回は弦吾君が同席していることもあって、反論できていないことをいつもより強く意識してしまうのだ。
 このまま一つの視点から見た一つの見解のみを採用した意見交換会で対談を終えてしまってもよいのだろうか。これが社会学者のやることかと自問してへこんでしまいそうだ。
「夢路さんは結婚についてどうお考えなのですか」
 いつしか苦労話を終えていた相沢氏から恐怖の問いかけが。
「はい?」
「夢路さんはまだ経験がないから分からないこともあるでしょうけど、それでも結婚というものに何を望んでいるのか。未婚の男性の結婚観を聞いてみたいわ」
 先程までの憤怒の顔つきから一転してニコやかな表情をしている。
「えーとですね」
 未婚。
 弦吾君が興味深そうにこちらを見ている。
 僕は未婚という文言には目を瞑り、正直に質問に答えることにした。
「僕は妻となる女性には特に望むことはありません。ああしてほしいこうしてほしいということはないです。僕は自分で自分のことができるし、何なら妻の面倒を見る余裕もあるかもしれません。逆に妻に何かさせてしまったら悪い気がするんです。妻には僕の分も自由に、楽しんで生きてくれればいいです」
 これは願望ではなく、単なる現在進行形の事実である。
「素敵! 夢路さんは女性を大切に思ってらっしゃるのね」
 えらく感動されたものだ。目がキラキラと光って見える。
 女性というか、大切に思っているのは音々さんのことなのだが。
「ええ、まあ。妻となる女性はそのくらい大切に扱いたいなあと。そう思える人と結婚したいですね」
「とても素敵な考えだと思います。それなら夢路さん。子供についてはどうですか? 子育てをどのように思っておりますか?」
 わずかに顔を近づけてきて問いかけてきた。
「いや、まあ、なんでしょう、僕はきっとなめられますね。厳しくできないですから。人に厳しくするの苦手なんです。冗談めかしてふざけ合っている方が気が楽というか。不真面目なんですよ。根が」
「また御謙遜ですか。そんなことないのに。夢路さんは本当に謙虚な方ですね」
 微笑んで僕を立ててくるこの女性には、やはり僕の意見は通用しないみたいだ。本気でそう思っているのに流されてしまう。
 フラストレーションの風船はすでに臨界点を突破していた。同調に次ぐ同調の後に妙なアプローチを仕掛けられたからだ。
 このままだとゾーンに入ってしまうかもしれない。まずい。
「夢路さんはとても面白い人ですね。一度お会いしただけでは何だか物足りないですわ。今度は雑誌の対談ではなくプライベートでもお会いしたいですね」
 そう言って微笑みかけてくる僕の不調の元凶。目の端で弦吾君がニヤけているのが見えた。
 プライベート?
 お会いしたい?
 僕はハッキリとした恐怖を感じた。
 その後に何故か理不尽に対する怒りのような感情も体中を駆け巡った。
 ああ、もう駄目だ。
 もうゾーンに入ってしまう――。
 その時、ふいにインターホンが鳴った。
 二度鳴った。
「変ねえ。来客は予定していないのに」
 相沢氏がいぶかしがる。
 弦吾君が目でスタッフに僕が出ますというメッセージを送り、玄関まで飛んでいった。すると弦吾君の聞いたこともないような声が響いてきたのだ。
 そしてこの後、ゾーン間近だった僕の目に信じられないほどの驚愕の光景が飛び込んできた。
 部屋に入ってきたのはなんと、音々さんだったのだ。
 スタッフも驚き、身動きが取れなくなってしまっていた。僕も後ろめたさからか、すっかり石化してしまっていた。やましいことなど何も無いというのに。
 音々さんの後ろからカンナさんと制服姿の美琴ちゃんがついてきた。そしてもう一人、美琴ちゃんと同じ制服を着た見知らぬ女子高生が。
 相沢さんだけはこの謎の展開にも動じず、怖い顔を維持していた。
 音々さんが相沢さんに近づいてくる。相沢さんのすぐ隣にいる僕など目に入っていない様子だ。そして相変わらずの無表情だ。
「どちらさまですか?」
 音々さん一味に対する相沢さんの毅然とした誰何(すいか)。
 その先頭をひた走る音々さんが口を開いた。
「突然お邪魔してしまって申し訳御座いません。わたくし小説書きを生業としている者です。あちらにおります娘さんを通して先生に取材に上がらさせていただきました」
 一瞬、相沢氏の眼光が鋭くその娘さんを射抜いて、また元に戻った。
「取材ですか。わたくしの著書に関することですか?」
「いえ。モンスターペアレンツの取材です」
「はい?」
「私はモンスターペアレンツの方々にお話を聞いて回っているところです。お手数ですが相沢さんにも是非お話をお聞かせ願いたいのですが」
「はい?」
「鋭い牙と角を持ち、口から火を吹く化け物を見つけ出してはこうしてお話を伺っているところなのです。相沢さんも見たところそれに間違いないようなので、是非ともお話をお聞かせ願えたらなと思いまして」
 常に毅然としていたはずの女性が瞬く間に石になった。
 何故だろうか、僕の身に蓄積されていた抑圧が、この瞬間すうっと消えてなくなった。

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