見出し画像

「怒」ってないで「叱」ってよ

人間のことを何も知らない無知な使い魔がお散歩がてら、極悪ひねくれ非常識人のうp主に人間界の常識を教え込まれているようです……。

 お散歩④「怒」ってないで「叱」ってよ

「お前はよく私に説教を垂れるけど、その目的は何だ?」
「え? な、なんだよ。目的ってそんなの……」
「ほとんどの人が気づいていないのさ。今の私の問いかけが人間社会の切実な一部分をとてつもなく歪ませてしまっていることにね。ああ、お前もやはり答えられないんだね」
「お、お説教の目的なんかお説教すること以外ないじゃないか! 別に僕はそれで得意になったりするわけじゃないしね!」
「当たり前のことで威張るなよ。常態が当たり前じゃないみたいじゃないか。いいかい、人外よ。いわゆるお説教をする目的には大きく2つのパターンが在るのだよ。一つは相手に改心や矯正、反省といった次善のための変化を求めること。これはとても当たり前のことだね。むしろ他に説教の目的などないはずだ。そうだね?」
「え? う、うん。もちろん……」
「そして二つめのパターン。これは一つめのような教育的意味合いを一切考慮することのない目的でしかない。それは単なる怒りの発露。相手を正そうとかではなく、ただ我慢できないから怒鳴る。ただ怒っていることを伝えて恐縮してもらう。ただ相手をやり込める。ただ子供じみた感情に従って圧倒的なマウントを取ろうとする。そんなことをお説教などという高尚なタイトルに包みこんでいるだけの呆れたパターンだ。これは本当に誰のためにもならないんだ」
「へ、へえ。さ、最低だね」
「自分の感情を爆発させてるだけという、それ以上でもそれ以下でもない無意味な状況。こういうお説教に終始してしまった場合、説教されてる方は今後その怒ってる人を怒らせないように動こうと強く思うようになるんだ。そう学習してしまうわけだね。逆に怒らせないような場合なら似たような状況でも平気で同じ轍を踏もうとする。なんの教育にもならないのだよ」
「そ、そうだね」
「だがこれが教育的意義のお説教の場合、叱られた方はなぜそれが駄目なのかを理解、納得することで今後再現性の高い論理的な予防策を講じることができる。道徳の理由と理屈を一つ学ぶことができる。これを教育と呼ぶのだ」
「も、もちろん僕もそうだよ。そういう目的で説教しているわけで」
「へえ。すごいね。実は「怒る」ではなく「叱る」方の説教ってものすごい高等技術なんだ。確かに燃え上がっている己の怒りを抑制しつつ、怒りの源泉たる目の前の誰かさんに対して理路整然と、そいつが納得し理解してくれるまで論理で説き伏せないといけない」
「そ、そんなの無理だよ! あ、ぼ、僕以外の人間は難しいと思うなあ!!」
「そう、ほとんどの人はできていない。というか人間には無理な領域の話なんだこれは」
「だよね…(ホッ)」
「もしお説教の数々が「怒り」の発露だけになってしまったら「バレなきゃいい」が横行する社会になってしまうんだ。要するに誰かを怒らせなきゃいいだけの行動が優先される社会だね」
「ああ。それはそうかも」
「だが、人間には完全な「叱る」などできるわけがない。どうしたって相手には論理以上の「怒り」が伝わってしまう。こいつを怒らせないようにしようというメッセージがお説教の大部分を占めてしまうことになる。結論、この社会は「バレなきゃいい」がそこら中に溢れ返ることになる。隠匿上等の無法地帯ということになってしまうのさ」
「ど、どうすりゃいいのさ! みんな勝手なことするよ!」
「簡単だよ。みんなでその最低最悪な「バレなきゃいい」の生き方を貫くんだ。だって、それすらもバレなきゃいいんだからね。そうやって今日も笑顔の裏に何かを隠しつつ、この人間社会は平和裏に回っているんだ。ああ、いい天気だねえ」
「あ、ああ! なるほど、そういことか! よーし、僕もあんな悪事やこんな悪事を反省することなく、まずはひた隠しにすることを覚えよう!」
「(はい、矯正完了。これが「お説教」の醍醐味だね)」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?