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非常事態宣言に感じる陰鬱さの正体

非常事態宣言に対する様々な専門家からの評価が日経朝刊に寄せられている。

非常事態宣言に基づく措置に罰則等を伴ったエンフォースメント手段がないのは、措置違反に対するレピュテーションリスクやそれに伴う経済的損失の可能性を各民間主体が合理的に見積もるだろうという仮説に基づくものだ。

罰則等の国家権力の発動の可能性を措置するよりも民間主体に対するより制限的でない手段を採ったものとして、権力を監視する市民側としては大いに評価するべきことだ、というのがこの国の憲法が持っている今般の非常事態宣言という仕組みに対する価値観ということになる。

他方で、発効後におそらく起こるだろうことは、要請にもかかわらず営業している店舗や出歩く人々に対してマスメディアが正義漢ぶった論調で報道し、「善良」な市民がこれに踊らされてそうした事業者や人々に対して一方的に罵詈雑言を浴びせるという展開だろう。

社会による攻撃の対象となった人たちも、本当は攻撃をしている人たちと同じ一介の善良な市民に過ぎない。それぞれの事情があっての行動であることがすべて捨象されて、外出制限でストレスが溜まっている市民のストレス発散の捌け口として社会のスケープゴートにされていく。

こうした市民の分断、市民間の陰湿な私刑は、「エンフォースメントのない非常事態宣言」という仕組みが想定としているレピュテーション低下そのものと言ってよい。つまり、憲法的な価値観のもとでは高く評価されるはずの今回の非常事態宣言の仕組みには、こうした市民の市民による私刑という陰鬱な事象がビルトインされているということになる。

複数の病院で新人研修医の若さゆえの過ちに対して死ねとばかりに罵詈雑言を浴びせる、人に対する共感力や想像力を欠いた多くの“善良な”市民を見るにつけ、今日からから発効される非常事態宣言に対して言いようもない陰鬱な気分になるのは、非常事態宣言が内包しているこうしたエンフォースメントのからくり、法律的な評価軸では割り切れない評価の難しさがあるからなんだろう。


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