届いてほしい人には届かない

わたしは中2の頃から一貫して
「わたしのことをよく知らない人が、勝手にわたしのことを決めつけて語る(上に行動される)」ことがまじでムカつくんだけど、それをまだわからない配偶者よ。

なんのために『最高の教師』を見たんだ。

あれはわたしの中学時代の鬱屈とした3年間が凝縮されていて感心したどころか、解像度が高すぎて当時を思い出しては気分が悪くなることが多々あった。
「どんな中学時代やねん!」とよく言われるけど、まあ簡潔にいうと「平成なのに尾崎豊『十五の夜』がリアルで起きている」中学校だった。
あまり事細かに語ると身バレするおそれがあるくらいには、地域では有名なヤンキー中学校。
そんな場所で多感な時期を過ごして学んだのが「真面目なやつがバカを見る」こと。
頑張ってる姿は「キモい」と笑いとして消費される。
頑張ってる姿を見せなかったら「調子に乗ってる」「ウザい」らしくて攻撃の対象となる。
そうやって、前進している人の足を引っ張る。

かといって、たとえ彼等のお望み通りの姿を演じて過ごしたとしても、真の仲間になれるわけでもなく、そこにはただ空っぽになった自分だけが残り、誰もその責任はとってくれない。
当然、悪戯に消費した時間はかえってこない。
それがわかっている人は、毎日戦わないといけない。
『人権』という単語もろくにわかってないニンゲンたちが、他人の人生を暇つぶしの娯楽として許可なく消費する人たちと。

九条先生は
「憶測で彼女(鵜久森)のことを語らない」
と度々生徒に注意していた。

その言葉の意味はSNSの時代だからこそ、もっと多くの人に届いてほしい言葉でもある。
自分の目に見えていることが事実だとしても、それが当人にとっての真実だとは限らないから。

九条先生の言葉はかなり抽象的な部分も多かったので
きっとこの言葉が届いてほしい人には
その真意も含めて届かないんだろうなという
あの頃から味わい続けた諦念が
わたしにとっての1つのオチであった。

でも、理想を語ることをやめたら理想には辿り着けないから、こういうドラマはたとえ届いてほしい人に届かないとしても、いつの時代にもずっと在り続けてほしいのが創作としての意味だと信じている。
それがわたしにとってもう1つのオチ。

だから配偶者には言い続けるしかないのだ。
「わたしのことをよく知らん人の言う『わたしのこと』を、わたしに確認せずに鵜呑みにして行動すな!」と。


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