父を突然の交通事故で亡くしました。
遺影の中で父は、優しく笑っている。
一ヶ月前の2023年3月30日に私は父を交通事故で亡くしました。
相手方が前方不注意で父が運転する軽トラックに中型と大型トラックの2台が追突しました。
【ニュースリンク】東名高速道路上りでトラック3台が絡む事故 男性1人が意識不明の重体 静岡・富士市
享年70歳で突然帰らぬ人になって父は元気が取り柄で80歳までは働くと常々言っていました。
自動車整備士資格を持ち車が好きな父は僕が生まれる前から約35年間運送業を生業としており、事故の直前も母に『これから帰るね』と電話をしたのを最後に帰り道にトラックに追突されました。
自分が生まれてからというもの(30年以上)父は大病も大怪我もせずに過ごし、自分たちの家系というか親族は身体が丈夫で皆長寿なので父も同じように歳をとっていくものだと思っていたが突然この世を去ってしまいました。
それも病死ではなく、事故なのでほんと突然に。
近いタイミングで親しい友人も突然この世を去ってしまった。
父の訃報に重ねて
彼と出会ったのは3年前。
僕の友人らは各々地方に行ってしまった人が多く中々会えなかったり、近くに住んでいてもコロナがあったりと人に中々会えなかった。そんな中、彼と出会ってからは彼と一番飲みに行くことが多かった。
お互いに大変な時期があったときも話をしたり、休みが合うととりあえずでもふらっと飲み行くような間柄だった。
そんな彼もなぜ”こんなタイミングで?”と思ってしまうほどに突然の訃報だった。
まさか突然の友人の式に出て、その次の日に自分が喪主として自分の父を見送るとは思いもしなかった。
突然のこと過ぎて中々気持ちの整理がつかなかった。
父を亡くしてちょうど1ヶ月が経ち、夢でうなされることも朝涙を流しながら起きることもなくなった。
今はちょっとづつではあるが自分も母も前に進めている。
司法解剖をへて父は帰ってきて、父の顔を最後に親族に見てもらった上で葬儀を行い、父を無事見送れた。(司法解剖後に故人に会えずに火葬されることもあり、父の場合もその可能性があると警察から事前に言われていた)
家族葬ではあったものの、父の訃報を連絡すると葬儀前には父の仕事仲間の方々に多く集まって頂けて父の人柄を垣間見れた。
これから四十九日を迎えるが、向こう一年くらいは刑事、民事の裁判を弁護士と共にやっていく。この一ヶ月は警察、加害者関係者、弁護士と入れ替わり立ち替わり毎日のように連絡を取り合っていたが方向性が見えたことで次の章に入った感がある。
人は必ず死ぬ。だからこそ、
例外なく人間は誰しもがそこに向かっている。本や偉人の名言で
「時間は有限であり、自分の人生を生きろ!悔いのない時間を過ごしなさいetc….」
とあるが今こそその言葉をこれまでと"違った角度"で今の自分は受け取ることができる。
最後に
つれづれなるままにポエムを
年間の交通事故件数は2020年で309,000件、うち死亡事故は2,800件。
まさか、その被害者に自分がなるとは。
3月30日の午前5時3分。寝室で眠っていた私に一本の電話がかかってきた。
「救急隊の◯◯です。お父様が東名高速道路で事故に遭われて緊急搬送をしています。✕✕病院にすぐ来れますか?」
寝ぼけまなこで電話で出たが一連のやりとりを昨日のことのように今でも覚えています。
すぐに母に電話をして1番はやい新幹線で収容先の病院に向かった。以後、病院からの都度の連絡は外国人であり日本語が得意ではない母ではなく、僕に連絡が入るようになった。
病院へ向かう車中では涙が止まらなかった。
ただ、隣に座り動揺している母の前では泣くものかと席を立ってはデッキに行って泣いていた。何回も席を立っていたので母も薄々状況を察していただろう。
病院に着くと受付の人から「入院」という単語が出てきたので父は最悪の事態は避けることができて重症であるもののまだ”生きてる”と思った。
そのあと個室に移動してすぐに医師から父の容態を聞き、レントゲン写真を見せられたときに
父の死を直感した。
医師からは
『家族が見守る中で
医師が最後に確認をしないと"形式上"、
人が亡くなったことにはならない』
と丁寧に説明をしてくれた。
医師が説明中に何度も私達が「父は生きているのですか?」と尋ねると丁寧に「(形式上)亡くなっていない」と何度も言われた。
一連の説明のあとすぐに父に会うことが出来た。
ギブスで固定され変わり果てた父の身体はすでに冷たかった。対面したときのショックは未だに忘れることは出来ない。
冷たい父に触れ、父の死をすぐに受け入れられるものではなく、胸中でぐるぐるしていた感情が口から叫び出て、ただただ涙を流した。
父はその週末に私の息子(孫)に会うのを楽しみにしていた。
息子は長い入院から退院が出来て、事故に遭わなければようやく私の父はおじいちゃんとして初孫を抱っこできる予定だった。それももう叶わない。
退院直後にもすぐに会いに来てくれたがそのときは息子には呼吸器もついていたので抱っこするのは次来たときにするよと言っていたのだ。
父が亡くなってからというもの、日々過ごす中で、父がもし生きていたらどんな言葉をかけてくれるだろうと脳内で父の言葉が再生される。
一方で、
なぜ電子タバコを取ろうとして前方不注意で父の車に追突したトラック運転手が怪我せず助かり、真面目で家族想いで、ゴールド免許を持って常に丁寧な運転を心がけていた父が死ななければならないのかと恨み、さらにそんな考え方をする自分が汚れているかのように思え、自己嫌悪に苦しんだりもしました。
父との対面の直後に警察が間に入り、加害者とも対面をしました。加害者に対してやるせない気持ちをぶつけそう、どうにかなりそうにもなりました。
しかし一緒に立ち会っていた母は
とその言葉だけをずっと繰り返しながら、強く、強く私の腕を握り、静止させてくれました。
交通事故死遺族の手記を読んでいて中には事故によって被害者遺族も加害者家族も生活が一変してしまい。。と加害者側も気遣う文をたまに見ることもあるが今の自分はとてもじゃないがそういう感情になれそうにはないです。
父が亡くなり丸一ヶ月が経ち、もう少ししたら四十九日を迎えます。父を供養していくなかでいつか私もそういう気持ちになれたらと思います。
2023年5月1日
新井正輝
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