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もし今日が自分の人生、最期の日だとしたら。そう思って二十歳から生きてみて。未来プロジェクトが私にとっては「こどもの未来」であり「家族の未来」である理由。

おはようございます。10月27日、現在は朝の8時24分です。家族でご飯を食べながら書いています。娘、息子には良い見本ではありません。申し訳ありません。
果たして、私は後どれくらい生きれるのだろうか、と考えることがあります。二十歳からそう生きてみて、と書いていますが、まさに下記動画を大学生の頃に見てから、なるべく意識するようになりました。

何かに迷った時、苦しくなった時、ことあるごとに見ている動画です。実際、私は後どれくらい生きられるのでしょうか。そして、私の大切な人たちはどれくらい生きられるのでしょうか。また、それだけでなく、一緒に過ごせたり、後何回会うことができるのでしょうか。

その想いは子供が生まれて、一層強くしています。私にとっては、そこが全ての基準であり、判断の基準であり、立ち返る場所です。この人とどれくらいの時間を過ごしたいのか、自分は後どれくらいの時間が残っているのか、また、何を持っているのか。その上で、何をしたいのか。そこが基準です。

なので、別に冷たいわけでもなく、それぞれが大切な時間を持っていて、そして、持っていなくて、それを自分で決められる部分と、決められない部分がある。その上で、自らが、決められる部分で決めていく。そう考えると、自分ができること、できないことって、大きくあるわけで、できることもそう多くないのかもしれない、と。

そう思うと楽にもなるし、苦しくもなる、と。そんなことを思うわけです。じゃあ、冒頭のところに戻ります。

『もし今日が自分の人生、最期の日だとしたら。そう思って二十歳から生きてみて。』ってことなんですが、実際、そこまで真剣に考え抜けていなかったのではないか、と今日は思います。

どうした感覚なのだろう、と。そう思うわけです。それをずっと考えていた気がします。ただ、今、本当にそうした日が突然来るかもしれないし、直面するかもしれない。となると、どういう気持ちでいたらいいのだろう、と。

いろんな葛藤と、戸惑いと、突然であればその隙もないのかもしれません。ただ、周りとも当然ながら過ごすこともあるでしょう。少なからず、影響を与えることになります。そうすると、どうあるといいのでしょうか。ただ、そのどうあるべきか、に自らを制し続けられるのでしょうか。

ただ、本当の意味で、自分がそうなる、という自覚がないのかもしれません。自覚した時、それぞれに対して、どういう心持ちでいるのか。未来を考えるには、未来があると信じられる人である必要があるでしょうか。それとも、そうでなかったとしても、誰かに未来を託したい、自分の分も生きて欲しい、と思う場合もあるでしょうか。

ただ、それだけ綺麗なものなのかな、とも思ったりします。人の気持ちや考えは、それほどまでに統合整理されて、綺麗であり続けるのだろうか、と。

改めて、動画を見て考えるのは、家族がいる今、捉え方も違うということです。彼女、彼らに何を伝えられるのか。そして、お世話になった両親、妹、そして、妻に何が残せるのでしょうか。そう思うと、何が大事で、何を選び取るのか。色々考えるのでした。

私が仮に今日亡くなったとしても、誰か、私が何か残したことで、妻、娘、息子、そして、両親、妹のことを守ってくれる人がいることを強く強く願っています。自分ができることの少なさを恨みながらも、何を恨むことでもなく、できることをやる。その保証のないことに取り組み続けているのが、私なりのこどもの未来であり、家族の未来という感じでした。

皆さんにとっても、それぞれの人生を健やかに、楽しみ尽くせることを、願うことしかできませんが、ただ祈りつつ、互いに楽しみ尽くしましょう。楽しめばいいのか、よくわかりませんが。