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乳がん宣告をうけて

【町のお医者さん】

右の乳首から茶色っぽい血がちょっとだけいつも出てた。ブラが少し汚れてるなーなんだろなぁぐらいに思ってて気付いたら約1年経ってた。はじめは掻いたからかなぁとか、夫に毎日触られすぎたからかなぁなんて呑気に思ってた!笑
 ある日何かの話で母に言ったらすぐに病院に行きなさいと。1週間後には町の乳腺外科で初めてのマンモグラフィーとエコー。マンモが痛すぎて涙目に、そして押されてさらに乳首から血が出た。まぁ大丈夫だろう、よくある乳腺炎だろうと自分を安心させながら結果を聞いた。乳腺の石灰化でしょう、少し悪いものの可能性があるから大きい病院で生検(実際に細胞をとって詳しく調べる)をしましょうとのこと。紹介状をもらい、わたしより不安そうな母と一緒に地下鉄に乗った。まだこのときは、また学校を休むのかぁ、いやだなぐらいにしか思ってなくて、どこまでも楽観的な自分がいた。
でももし乳がんだったら、1年以上前から症状が出てるしやばいよなぁとも思ってたら、それから1週間後にお風呂に入ってたときにしこりを発見した。硬くて小さくてでもこりっとしてて、何をしても痛くないやつ。毎日夫とお風呂に入るから触ってもらうとたしかにあるねって。このときはショックで思わず泣きそうになり、不安をかき消すようにぎゅっとハグをしたのを覚えてる。

【大きい病院で生検】

学校を大慌てで飛び出し、駅からタクシーに乗り、なんとか予約の時間に間に合った。夫と母が先に受付を済まし待っていてくれてありがたかった。なかなか呼ばれなくて、Switchを取り出しゲームをしながら待つ。予約の意味がないくらい大きい病院てまたされる、そのときの待合室で乳がんのしおりとか、再建の相談とかいう文字がやたら頭に入ってきて嫌だった。
早く確かめて知りたい気持ちと、針を胸に刺すのが怖くてとにかく落ち着かなかった。やっと呼ばれて診察室に入ると、冷静な女医さんと同じくらいすーっと冷静になるじぶん。胸に麻酔の細いはりが刺さりちくっとした。痛みに弱いわたしは反対側の太ももを思いっきり自分でつねった。昔何かでみた痛くなく注射を打つ方法は他のところを刺激するだった気がした!(適当!笑)次に太い針が刺さり、バンッと大きな音がして細胞をとられる。音の割には痛くなくて安心したけど、音の大きさで身体がびくっとなるのが分かる。合計で4本取った。なんだか少しすっきりしたような、不安が残るような気持ちだった。終わった後、一緒に病院まで来て何時間も待ってくれた夫なのに、気の利いたこと一つ言わないことになぜか無償に腹が立って、会計で並びながらイライラした。その後癌かもしれないと急に強い不安に襲われて泣いた。でも泣いているのを夫にも母にもばれたくなくて、会計の機械から領収書が出るまでの時間でなんとか抑えるために、ぎゅっと奥歯をかんで耳の奥に涙をしまい込んだ。歯の奥がつーんと痛かった。


【結果と手術方法】

結果をいつ聞いたのかは正直よく覚えてない。母はどんなときもいつでも付き添ってくれて、いつでも言葉で全力の愛を伝えてくれる。そんな母と一緒に聞くんだからどんな結果でも大丈夫と思った。
やっぱりめちゃくちゃ待たされた後、診察室に呼ばれて結果を聞いた。やはり、絶対聞きたくない言葉を聞かされた。
「なぁんだやっぱりただの乳腺炎でしたか。良かった良かった!心配したよー!」という方もシュミレーションをしていたのに、それは叶わなかった。詳しいことを色々聞くと、臓器への転移はまずないとのことで不幸中の幸い。あとは右胸を残すか全摘するか。再建手術をするかしないかの選択だった。
そこまで迫られるとあまり迷いはなく、元気に生きられる可能性がより高い方法を優先して選んだ。つまり、取り残しのある可能性をなくす右胸全摘。そして、まだ若いからと先生や母も勧めていた再建手術もすることにした。乳首はどうするかとか、どの方法とかの話もあったけど、そのときはそんなことどうでも良いよという気持ちだったからまた後々決めますと答えた。
その夜からお風呂に入るたびに、鏡の前に立って毎朝ブラジャーをつけるたびに、じっくり自分のおっぱいをみるようになった。特に好きでもなかった小さなおっぱいが愛おしく可愛らしく感じて、触って、あったかくって、あぁ自分の身体って美しくてなんて尊いんだろうと人生で初めて思った。
夫にも話をした。私たちはきっと他人が聞いたら引くレベルでなんでも正直に話す。え、そんなこと本人にいう?ってことも。夫いわく、いまおっぱいにものすごく飢えてるわけじゃないから、おれは別にショックとかはない。おれにとったら、ちんこを切るようなもんか。。わたしにとってはそりゃ大きなことで、その後障害者てかんじる気持ちもわかる。おれも悲しいよ。夫の言葉はたまに直接的で削ぎ落とされすぎてると思う時もあるけど、何となく同じ立場で理解してくれようとしてるのは分かったし、夫にとって見た目より、当たり前だけどわたしの健康が第一と考えていることは伝わった。

父と母もわたしと同じかもしくはそれ以上にショックだったかもしれない。父が家族LINEで癌友だね!と当時のやきもきした気持ちを共有してくれた。
本人にしか分からない辛さや気持ちがあるから、家族みんなで支えていこうという言葉があまりにも頼もしく、そのときの自分が最も欲してた言葉だった。
父は胃がんと大腸がんの手術を経て、いまは釣りやゴルフをしてぴんぴんしている。

この日から入院までのことはまた次の記事で!


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