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「アンディ・ウォーホル・キョウト」展の感想

京都市京セラ美術館で2月11日まで開催中の Andy Warhol Kyoto 展を見に行ってきた。その感想を書き留めておく。

結論から言うと、入場料2000円(土日祝は2200円)は、ぼったくり感がある。1000円くらいが妥当かなあ、と。

見る前に、美術館内のカフェ Enfuse にて、Warhol 展に合わせた特別メニュー、Warhol の作品をプリントしたマグカップに入ったスープ、を注文。Warhol といえば、キャンベル・スープなので、これは良いアイデアだと思う。

Andy Warhol Kyoto 展特別メニューのスープ(筆者撮影)

展示会場は5つのセクションに分かれていて、まず最初は、1950年代にグラフィックデザイナーとして活動していた頃の作品群。震える手で描いたような線が特徴のイラストで、ニューヨークのデザイン業界で人気になったらしい。

しかし、そのイラストだけが展示されていて、どういう目的で使われたのかの説明が皆無。デザインの良し悪しを評価する判断基準は、クライアントの要望にどのように創造性を発揮して答えたか、なので、これでは Warhol がどれぐらいすごいデザイナーだったのかが理解できない。

次のセクションは、今回の展示の目玉、Warhol が1956年の京都旅行中に残したスケッチ。デザイナーとして成功したので、自分へのご褒美に世界旅行をしたのだそうだ。その途中で日本に立ち寄ったとのこと。

また、その後の日本との関わりで作成された作品群も展示されていた。生花のスケッチや、北斎の Big Wave をモチーフにした作品が展示されていた。面白いのは、これらの日本をモチーフにした作品が、全くもって Warhol っぽくないこと。詳しくは後述する。

三つ目のセクションは、Warhol が現代アート界の寵児となった1960年代の作品群。キャンベル・スープはもちろん、Brillo Boxes が二箱置いてあった。

この Brillo Boxes 。1964年 にニューヨークのアートギャラリー Stable Gallery で初めて展示された時には、何箱も天井まで高く積み上げられ、お店の倉庫のような雰囲気だったらしい。

Brillo boxes at the Stable gallery in 1964 (source: Feature Shoot)

アート作品が展示されているはずのギャラリーに、当時「アート」とされていた世界の外側にある普通の風景を作り出すことで、「これはアートだが、あれはアートじゃない」という線引きの無意味さを指摘したのが、Warhol の現代アートにおける最大の功績なのだが(この点については、末永幸歩『13歳からのアート思考』(ダイヤモンド社、2020年)に非常にわかりやすく書いてある)、箱2個置いただけでは、うまく伝わらない。まあ、この箱が今となっては1個あたり相当な値段になっているはずなので、現実には難しいが、少なくとも、このオリジナルの展示風景の写真は欲しかった。

2023年2月17日追記: オリジナルの Brillo box は一箱約6800万円、複製品でも一箱約5500万円で、2025年開業予定の鳥取県立美術館が計5個購入したそうだ。「税金の無駄遣い」という批判が出ているらしい。(情報源:毎日新聞

四つ目のセクションでは、Warhol に自画像を描いてもらうことがトップスターの仲間入り、となった頃の作品群が紹介されていた。有名人の「大量生産」された写真をシルクスクリーン技法で何枚も複製し、その上に、マチスなどのFauvism的な手法で「感情」を表現する色を、セザンヌのような故意に塗り残す方法で、加えていく。だから、当時「文化大革命」中だった毛沢東の瞳には、雑に赤色が塗られる。

今回の展示のフライヤーに feature された、マリリンモンローの作品では、三つ並べた同じ顔のマリリンが、それぞれ微妙に異なったパターンで着色されている。大量生産されたものに対し、それを消費する側は、だいたい同じだけれど、微妙にそれぞれ異なった感情を抱く、ということなのだろうか。

Andy Warhol "Three Marilyns" の展示風景(筆者撮影)

で、最後のセクションは、死がテーマになった作品群。この辺は、別に Warhol じゃなくてもできそうな作品に見えた。


Warhol の作品を初めて見たのは、まだ現代アートについて特に関心も持っていなかった頃に、ニューヨーク旅行中に立ち寄ったMoMA。ピカソから年代順に絵画作品が並んでいて、段々と「絵画」というカテゴリーが壊れていくプロセスを眺め、その最後に Warhol の作品が目の前に現れた時、「ああ、ここで「アート」が終わったんだな」と視覚的に感じた。理屈ではなくて。

今回、この Warhol 展を見るにあたり、前述の『13歳からのアート思考』という本を読み返した。Warhol が「アート」というカテゴリーをぶっ壊した後、現代アート作品を評価する権威であるMoMAは、キュレーターたちの自らの価値判断で選ばれた作品を収蔵品コレクションに加えるようになり、多くの人が「アート」とは決して呼ばない「パックマン」などのコンピューターゲームもコレクションに加わるようになったのだそうだ(末永幸歩『13歳からのアート思考』、282−291頁)。

評価すべきは人間の創造性そのものであって、最終的な形態が、昔から「アート」とされてきたような見た目であることに必然性は全くない、ということだ。

なので、今回の Andy Warhol Kyoto 展に足を運ぶまでは、元々デザイナーだったというキャリアが Warhol にとって大きかったのかなあ、と勝手に想像していたのだが、展示を見終わった印象としてはそうではなくて、世界旅行中に日本などのアメリカ以外の国を見てから帰ってきて、1950年代当時のアメリカの大量生産・大量消費という文化の特異性に気づき、シルクスクリーンという技法でその「大量生産」という概念をアート作品として表現できることにも気づいた、ということなのかなあ、と思った。

だから、上述の日本をモチーフにした作品には、同じイメージをシルクスクリーンで幾つも複製することで「大量生産」を表現する必要がなくて、Warhol らしくない作品に仕上がっていたのだろう。

で、Warhol といえども、アートギャラリーに展示される物が「アート」だ、という先入観からは逃れることができなくて、でも「アート」はアートギャラリーの外にも存在しうる、ということを証明したのが、Banksy なんだな、と理解できた。2年前に書いたバンクシー展のレビューとの繋がりが見えた。

今回のWarhol展でも、バンクシー展でも、ぼったくられた、と思ったのだが、こういうタイプのアートでは仕方のないことなのだろう。実際に作品として見ることができるものは、昔の絵画みたいにテクニックがすごい、とか、感情が伝わってくる、とか、そういうものではないから。評価されるべきなのはコンセプトなので。

にもかかわらず、従来型のアーチストとして扱おうとする展示をするから、ぼったくられ感が生まれる。

だから、2000円も入場料として徴収する展示をするなら、展示デザインでアーチストのコンセプトの創造性を表現しないとダメで、世界で活躍するような建築家やインテリアデザイナーを雇わないと無理なんだろうなあ、と思う。



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