バンクシー展に、ぼったくられた


大阪ATCギャラリーでのバンクシー展に行ってきた。

入場料1800円(土日は2000円。当日券を窓口で買うともっと高い)。ぼったくりだと思った。

バンクシー本人の同意を得ずに、作品のレプリカとか写真とかだけで、本来無料で街角で見ることができる「落書き」アートを、金を取って見せる。しかも紹介の仕方が、バンクシーへの侮辱行為と思えるほど表面的。

家にいながらスマホで美術手帖の鈴木沓子によるバンクシー記事を読んだ方が、バンクシーの現代アート史上における意義についてよっぽど理解できるし、考える糧を得られる。例えばこの記事:

展示デザインがバンクシーの魅力を的確に捉えているわけでもない。最初に何の脈絡もなくバンクシーの世界各地に散らばる作品の映像を大画面で見せるが、「落書き」の一部をアニメーションにする加工がされている。例えば、ロサンゼルスの以下の作品の写真を、ブランコが揺れるアニメーションとして見せていた。

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それはバンクシーの作品の本質を全く突いていない、とてもチープな作品の紹介の仕方だ。実際の作品がどうなのかがわからなくなる上に、アニメーションで目がチカチカする。

そのあと、突然、新型コロナで自宅謹慎状態になったバンクシーがウェブ上で発表した自分の家のトイレに落書きした作品の、原寸大レプリカが登場。バンクシーがどういうアーチストなのか、まだ理解できていない段階で、いきなりこれを見せられても全く理解できない。

その次に、バンクシーのスタジオを原寸大で再現した空間が登場する。が、あくまで想像上のもの。その上、作品をまだ見てないのにこれを見せられても何が何だかわからない。

そのあとは、ごく普通なありきたりの展示。テーマ別にバンクシーの作品を分けて紹介しただけ。

バンクシーの最重要モチーフである"Rat"を「ネズミ」と誤訳したり(正確には「ドブネズミ」。イギリス人が忌み嫌うもの)。

展示パネルの英語原文が安易に Stencil という全部大文字のフォントで書かれているので読みづらい上に、日本語訳文は普通のゴシック体でバンクシー作品の雰囲気と何の関係もないというやる気のなさ。

しかもバンクシーに対して侮辱的なのは、作品の文脈の解説が表面的なものに止まっていること。バンクシーの作品は、その「落書き」が描かれた場所と、その時社会で何が話題になっていたかと切っても切れない関係にあるのに、絵柄だけがひたすら並べて展示される。まるで、バンクシーの作品は商業的アートだとでも主張するかのように。日本に住んでいる人に Tesco と書かれた袋の「落書き」を見せても、なんだか分かりません。イギリスのスーパー最大手だと説明しないと。

ロンドンに計6年住んでいたので肌感覚としてわかるのだが、バンクシーが「落書き」するのは、落書きがなければ憂鬱な気分になるような、殺風景な場所。崩れかけのコンクリートの壁に色あせた灰色のプラスチックパイプが一本くっついているような。そこに、ユーモアを交えて、案外可愛らしいドブネズミや、女の子の絵を落書きして、道ゆく人をニンマリさせる。バンクシーの代表作「Girl with Balloon」が最初に「落書き」された、Waterloo Bridge が良い例(なお、展示の最後に用意されている Girl with Balloon の紹介に、この最初に落書きされた場所の写真はなかった)。

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"Girl with Balloon" at Waterloo Bridge in 2002 (image source: Banksy official website)

また、バンクシーは作品を「落書き」する時、常に公共物・私有物破損の罪で捕まるリスクを常に背負ってる。その緊張感も作品から切っても切り離せない。

しかし、展示会場は、こぎれいで、安全で、バンクシーの作品の舞台背景に全くそぐわない。幾つか原寸大で再現されている作品があったが、全て安っぽく見えた。オークションで売られて、お金持ちの家のインテリアの一部になったような雰囲気。これではバンクシーを商業アートだと皆勘違いしてしまう。

しかも、ひどいのは、日本での展示でありながら、日本でのバンクシーによるものだと考えられているこの作品が一切紹介されていないということ。

日本に住む人のほとんどにとって、バンクシーが主に活動するイギリスやパレスチナなどの政治的・社会的文脈はピンとこないので、この日本の「作品」について触れないと、バンクシーの本来の意味を理解することは難しい。

以上をまとめると、このバンクシー展からは、「バンクシー」とグーグルして得られる情報以上のものを何一つ得られなかった。いや、それ以下だ。グーグルすれば、作品の文脈を解説した文章にすぐたどり着ける。ネットで情報を得ることで知った気になってしまう21世紀において、そんな展示に何の意義があるのだろう。

"Genius or Vandal" と題された、このバンクシー展。バンクシーのオフィシャル・ウェブサイトでは、ラスベガス、リスボン、マドリードで開かれたものが、FAKE(訳:偽物)として割高な入場料と一緒に紹介されている。

* * *

と、散々文句を書いてきたが、バンクシーについて知れば知るほど、こういう展覧会が開かれるということ自体も「バンクシー」というアートの一部だということがわかってきた。

バンクシーとは?

美術手帖のバンクシーについての記事を読むことで、ようやくわかってきたのだが、バンクシーは、アートとは何か、という問いを全く新しい方法で我々に突きつけ、じゃあバンクシーがやっていることは何かと問われるとアートだと答えるしかない、という芸当を成し遂げている。

他人の所有物や公共物に落書きするわけだから、作品が完成した瞬間、消される運命にある。しかし、バンクシーが有名になることで彼の落書き自体に価値が生まれてしまったために、消されたり、壁ごと壊して持ち去られることのないように、美術館にある作品のようにガラス板で保護されたり、前もって壁ごと取り外されて保管されるようになった(上述の日本での「作品」が一例)。バンクシーの落書きアートは描かれた場所を含めて作品なので、そのような保護行為自体が作品の破壊になっている。アート作品という概念が何なのか、どんどんわからなくなる。そこがイギリスらしいユーモア・センスで痛快。この辺の話は、美術手帖の吉荒夕記による記事に詳しい。

落書きで使ったステンシルを再利用して、数量限定でポスターを作成して売る、というバンクシーの行為も、果たしてそれはアートと言えるのか、という問いを突きつける。そして、そのようにして作成されたポスターがアートオークションで高値で買われる。そうしてお金持ちのコレクションとなったバンクシーのポスターを並べて、今回のようなバンクシー展がギャラリーで開かれる。ついでに、オークションで落札された瞬間に切り刻まれることもある。

そして、切り刻まれることで、アートとしての作品価値がさらに高まる。例えば、こんなことが真面目に議論されたりする。

アート作品という概念が何なのか、本当にどんどんどんどんわからなくなる。バンクシー自身も「自分が誰なのかわからなくなっている」とマネージメント会社「ペスト・コントロール」のホームページ上に書いている(出典)。

バンクシーの作品は、他のほとんどのアート作品とは異なり、最初に発表された時点では完成していない。むしろ発表後に作品が作られていくと言ったほうがいい。バンクシーの「落書き」作品に対する社会の反応そのものが、バンクシーの作品なのである。

しかも、「落書き」は、その場にさえ行けばお金を払わずに誰にでも見ることができるものなので、一般大衆を簡単に巻き込んでしまう。なんとなく敷居が高いようなイメージがあり、事実上、お金持ちやインテリ層だけにとっての「おもちゃ」である多くの現代アート作品とは大きく異なる。

バンクシーの非公式の展覧会を見に行ってぼったくられるのも、バンクシーの作品の一部なのだ。そしてそれに憤慨してこんな文章を書いている私も、作品の一部なのだ。

バンクシーは偉大なアーチストだと思う。

追記(2021年11月23日)

美術手帖で、バンクシーの非公式展をどう解釈するか、現代美術関係者にインタビューした記事が載っていたので、リンクしておきます。

特に面白いのが、Chim↑Pomの卯城竜太の解釈。この記事から引用してみる。

バンクシーはそうしたアーティストやポップスターという粋を越えていて、ちょっと極端に言うと、もはや構造的には宗教や信仰や教えに近い現象が生まれていると思います。

例えば、釈迦やキリストや孔子やソクラテスの教えを、実際に書籍などを通して広めたのは弟子だったり、その後は、本人に会ったこともない人たちの活動によるものですよね。カリスマが決定的な経典を書き残していなかったために、彼らの言葉は様々に解釈されまくって、たくさんの派閥ができた。つまり、伝達プロセスにおける『ある種の中心性の無さ』が、逆説的にカリスマを絶対的な中心とする大きな運動になって、世界へと広がりました。

つまり、非公式展を野放しにしておくことで、むしろ自らのカリスマ性を高めているのがバンクシーだ、という解釈。

産業革命以前は、宗教とアートは切っても切り離せない関係だった。西洋美術のほとんどが、キリスト教の聖書に出てくるエピソードを元にしているし、日本美術も仏教(禅を含む)をモチーフにしたものが多い。

バンクシーは、近代化以降に生まれた宗教とアートとの境界さえも越えようとしている。

やはり、バンクシーは偉大なアーチストだと思う。

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