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文字かADLか

この場に何度書いたことがありますが、私は一時期、8ヶ月だけですが、小学校で働いたことがあります。

仕事は、普通学級に通う重度知的障害児の「介助」でした。
しかし、理想と現実の狭間での矛盾に耐えられなくなり、8ヶ月で辞めました。

何故その児童は特別支援学校ではなく、普通学級に通っているのか。
その理由は、保護者の「他の子たちと同じ環境で過ごさせたい」「この子には教育を受ける権利がある」という考えと主張によるものでした。
「周りの子たちがこの子を助けてくれながら生活できるような社会になって欲しい」とも言っていました。

しかし、現実はその保護者の理想通りにはゆきません。
先生は他の児童のことで手一杯、人一倍手のかかるこの児童をみる余裕はありません。
そこで、「介助員」が雇われているという訳です。
しかし、私も含めて介助員は全員教育の素人。
まして、障害児の教育に携わったことなどありません。

その男子児童は教室の隅に置かれた席で、介助員の見守る中、毎日、好きな電車の本をパラパラめくり、ときにはそれを投げ、ときには机をひっくり返し、ときには床に寝転がって奇声を上げ、ときには椅子の上に立ち上がり、….ということをして過ごしています。

そんなときには、他の生徒の勉強の妨げになるので、先生がやってきて、おとなしく座っているように、と注意をします。
言うことを聞かないでいると、先生が声を荒げることもありました。

介助員の中にも「悪いことは悪いと教えるべきだ」と言って、そういうことをしたときに厳しく叱る人がいました。

昼食は他の児童と同じものを食べます。
家から持参してきているハサミを使って介助員が食べ物を刻み、その児童がそれを手づかみで、或いは、スプーンやフォークを使って、なんとか食べていました。

時間を決めてトイレに連れて行きましたが、ほとんどの場合、出ません。
ですから、おむつを外すことはできていません。
これは高学年になった今も変わっていないようです。
加えて、その保護者は、夏には「他の子と同じように」プールに入れて欲しいと主張していました。
おむつがはずれていない子をプールに入れる。
おむつをしたまま入れる?
おむつを外して入れる?
いったいどうなるのでしょう。

この児童は足の長さが左右で若干異なっており、また、片方の足が内側に曲がっています。
足の長さについては、靴底の厚さを変えて、対処していました。
ある時期に、その保護者が私たち介助員に歩行訓練をするよう求めてきました。
そのための手順書も作られてきました。
それを見ながら訓練をして欲しい、という要望でした。

言葉は話せません。
簡単な単語は発することができるものもあります。
保護者は文字や数字を覚えさせることを求めています。
そのための絵本やドリルも与えられました。
保護者によれば、電車を見ることが好きなその児童が、毎日見ている電車の行き先表示板を見て、その通りに「読んだ」そうです。
だから「教えれば文字を読めるようになる」「文字や数字を覚えるのが良いに決まっている」というのがその保護者の考えです。

介助員の中にも簡単な言葉を覚えさせようとしている人がいました。
犬の絵を見せて「いぬ」、猫の絵を見せて「ねこ」と言わせようとしていました。


こういう中で、私が強く感じたのは、食事、排泄、着替えといったADL(日常生活動作)の訓練をしなくて良いのだろうか、ということでした。
しかも、仮にそれを求められたとしても、素人集団の介助員にその訓練ができる訳もないし、するべきではありません。

教室でおとなしく座らせることが、その児童のためになるのでしょうか。
毎日、電車の本をめくっていて良いのでしょうか。
その児童は成長するにつれて、食べ物を喉に詰まらせることが増えてきていました。
そういう場合に、刻み食はかえって危険だということを後に知りましたが、その後どうなったのかは知りません。
また、文字や数字を覚えさせることが果たしてできるのでしょうか。
電車の行き先表示板を「読んだ」と言えるのでしょうか。
歩行訓練は専門の療法士が日々おこなうべきことではないのでしょうか。

この児童にとっての「教育」は何か。
それは文字や数字を覚えさせることではなく、ADLの訓練だと思います。
その「教育」を受ける権利を奪っているのは、他でもない、保護者ではないでしょうか。

このような矛盾に耐えることができなくなり、私はあの職を辞したのでした。