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京都アニメーション放火殺人事件の判決に思うこと

「京都アニメーション放火殺人事件」(以下「京アニ事件」と記します)の被告に死刑判決が言い渡されました。

「当然だ」「情状酌量の余地があるのでは」「死刑は廃止すべき」などさまざまな見方があると思います。

そもそも「刑罰」とは何か?

「目には目を、歯には歯を」という古典的な考えがあります。
犯した罪と同じこと、同じ苦しみを刑罰として与えるという「応報」の考え。

「抑止」という見方もあります。
罪を犯したら罰せられる。
だから犯罪を犯さないようにしようと思わせることで犯罪を防ぐ。

「教育」「更生」
懲役刑について、二度と犯罪を犯さないように教育する。

命を奪われた被害者の無念さ、また、ご遺族には「殺しても殺しきれない」「八つ裂きにしてやりたい」「自分の手で殺したい」「人を殺しておいて、自分はのうのうと生きているなんて許せない」などなど、犯人に対するいろいろな感情があるでしょう。
ご遺族でなくても、「死刑は当然」という考えが多くあると思います。

一方で、「死刑廃止論」というものがあります。

殺人が罪になるのに、国家による「殺人」は許されるのか。

「冤罪」という問題もあります。
例えば、事件発生から60年近く経った今も争われている「袴田事件」。
冤罪の可能性が濃厚なこの事件ですが、検察は誤りを認めず、あくまでも裁判で争う姿勢を崩していません。

袴田巌さんの60年という時間、さらには命が人の誤りで奪われてしまったとしたら、償っても償いきれるものではありません。
誰にでも誤りはあることを考えると「死刑判決」はとても危険なものと言えるでしょう。

この裁判の最大の争点は「責任能力」でした。
被告人が精神的な理由で「善悪の判断ができなかった」と認められた場合に減刑や無罪になることがあります。
今回の判決では、責任能力があったと認められました。

「情状酌量」はどうでしょう。
かつて「尊属殺人罪」という罪が規定されていました。
一般の殺人罪とは別に、尊ぶべき親などを殺したら「死刑または無期懲役」という厳しい罰則が定められていました。
一般の殺人罪にはある年数が決まった懲役刑はありません。
これは「親を殺めるなんてとんでもない」という社会通念に従ったものでしょう。
確かに「とんでもない」ことではあります。

しかし、この規定は憲法違反として削除されました。
削除のきっかけとなった事件の被告人(女性)は、父親から5人の子供を出産させられるなどの性的虐待を約15年も受け続け、思いあまって父親を殺した、というものでした。

いかがでしょう?
いくら親を殺したとはいえ、この被告人に対して「死刑または無期懲役」は妥当でしょうか?

これに対して判決は、尊属とそうでない者を区別しているのは憲法で定める「法の下の平等」に反するなどの理由でこの尊属殺人罪そのものを違憲としました。

では「京アニ事件」はどうでしょう。
被告人には不幸な生い立ちがあったことなどが報じられています。
36人の命と「不幸な生い立ち」。
単純な比較はすべきではありませんが、どう考えたら良いでしょう。

今回の判決に対して被告弁護側は「責任能力がなかった」ことを理由に昨日(26日)控訴しました。