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【日本語、雑感(その壱)】

今日から何回か、日本語について私が常々思っていることを書こうと思います。

昨今、日本語が乱れている、と言われています。
確かに、これまでにはなかった言葉が生まれたり、異なる使い方がなされたりしいるのは事実です。
「やばい」がその一例でしょう。
もともとは「危ない」とか「不都合である」といった否定的な意味に使われていましたが、最近は「素晴らしい」「魅力がある」のような肯定的な意味にも使われています。

また、「ら抜き」言葉というものがあります。
「見られる」「食べられる」という一段動詞の可能形の「ら」が抜けて「見れる」「食べれる」という言い方。
今ではすっかり定着しているようです。
おっと、「一段動詞」(上一段活用、下一段活用)なんていうと、寒気がするという方もいらっしゃるでしょうね。
小難しい話はさておき。
賛否両論のある「ぜんぜん大丈夫」も市民権を得ていると言って良いでしょう。
私はこの「ぜんぜん」は「ぜんぜん~ない」と、否定文でしか使いません。

ちなみに、私はワープロソフトを使ってこの投稿を書いていますが、今書いた「見れる」「食べれる」「ぜんぜん大丈夫」の下には誤用の注意を喚起する波線が引かれています。

「ら抜き」と逆の現象が「さ入れ」言葉です。
動詞が「させていただきます」や「ください」などと一緒に使われるときなどに現れる現象。
例えば、「帰らせていただきます」「やらせていただきます」「言わせてください」と言うときに「帰らさせていただきます」「やらさせていただきます」「言わさせてください」と余計な「さ」が入る言い方。

もう一つ最近耳にする言い方。
「違った」「違って」を「ちがかった(違かった)」「ちがくて(違くて)」という言い方。
「違う」という動詞が形容詞的に使われています。

「さ入れ」と「ちがかった」はかなり違和感がありますが、私はこれらが誤りであると言うつもりはありません。
ある古代遺跡にも「最近の若者は云々」という記述があるとかないとかいう話を聞いたことがあります。
その真偽は別にして、言語を含む文化というものは絶えず変化しています。
ですから、言葉について、何が正しくて、何が間違いだということはできないのです。
新しい言葉や使い方が生まれては消え、生まれては消え、を繰り返す。
そして、その中のいくつかが定着する。
それが言葉というものだと思います。