落とし噺の話【言葉の無駄】
私は落語が好きです。
中でも古典落語とされているものが特に好きです。
古典落語には江戸時代から伝わるものも多く、よほど珍しい噺でない限り、物語の筋は分かっている。
どんなことを言うかも分かっているし、結末も知っている。
それでも、何度聞いても、飽きない。
その度に、初めて聴いたときと同じように笑ったり、涙を流したりします。
それにはいくつかの理由があると思いますが、そのうちの一つは、言葉に無駄がなく、全体が引き締まっていることだと思います。
政治家や会社の偉い人の話を聞いていて、うんざりすること、ありますね。
それは何度も同じことを言ったり、要領を得ずダラダラと長かったりするときですね。
私が好きな噺家さんの噺にはそういうことがないのです。
ある噺家さんがマクラで「ガラスの金魚鉢」という言葉を使った後に、ハタと考えて、独り言のようにこんなことを言いました。
「ガラスの金魚鉢、は、無駄ですかね。言葉が重なってますかね。」
「金魚鉢」がすべてガラスでできていれば、わざわざ「ガラスの」と言う必要はないわけです。
そのときには「最近はガラスじゃない金魚鉢もあるから、いいのかな」ということでご自身は納得していました。
また、こんなこともありました。
「日進月歩」と言った後に、
「日進月歩というのは、早いんですかね、遅いんですかね。」
これは「どっちでもないですね」ということで一件落着。
別の噺家さん。
江戸を舞台にした噺の中で。
呑んでばかりでちっとも働きに出ない亭主におかみさんが言います。
「お前さん、そんなにサボってていいのかい?」
この後、噺を続けながら気づいて冷や汗が出たそうです。
「サボる」は外来語ですね。
江戸時代に使うわけはありません。
因みに、「サボる」は、フランス語の「サボタージュ(sabotage)」に由来しています。
念のため。
このように一言一言にこだわりを持ち、言葉の無駄を極限まで削ぎ落とす。
所作についても同様です。
ちょっとした目の動き、手や体の仕草。
ここにも無駄がない。
それでいて高座いっぱいに情景が浮かび上がる。
そこには噺家さん本人の姿はありません。
うらぶれた長屋。
夜明けの砂浜。
華やかな遊郭。
私にとってはこういうところが落語の魅力の一つです。
落語を聴きたくなってきました。
この週末は久しぶりに聴いてみようかな。