その間にコーヒーは冷めていく
その間に原稿は冷めていく
「一時間後に近くで用があるから、コーヒーでも飲んで時間を潰そうかな」
夫と出かけた帰り、乗り換え駅で夫が言った。
わたしは帰宅してやることがあったので時間潰しにつき合えなかったが、駅前のコーヒーショップまで一緒に行き、テーブルを見つけ、席に着いた夫に返却台はここねと椅子の背中側にある台を叩いて位置を伝え、カウンターへ注文に行った。
夫は緑内障で視野が少しずつ欠けている。視野検査で光をとらえている部分を表す白が陣取りのように黒に塗りつぶされていく。その速度が一定だとしても、進行のインパクトは時間とともに大きくなる。100から90に減るのは10%減だが、50から40に減るのは20%減だ。30が20になると見える範囲は3分の2に、20が10になると2分の1になる。
数年前からは白杖を使っている。あちこちにぶつかりながら歩いている。残された視野でとらえる世界はとても狭く暗くなっているのだろう。コーヒーショップに入るのも、空いているテーブルを見つけるのも、カウンターで注文するのも、自力で探り探りやろうとすると時間がかかる。
コーヒーを夫のテーブルに届けたら店を出るつもりだったが、カウンターで注文の順番を待つわたしに「トイレに行きたい」と夫が告げた。
それ席を取る前に言ってよ。並ぶ前に言ってよ。
そう言おうとして飲み込んだ。コーヒーを飲みたいにしろ、トイレに行きたいにしろ、思い立ったときに行動に移せるのは、視覚を不自由なく使えるからだ。夫はわたしのいるうちに誘導してもらおうと考え、そのタイミングで伝えたのだろう。
予定通り段取り通りに進まないもどかしさを、わたしは子育てで経験した。こうは行かぬか、そう来るか。そのときそのときでよりダメージの少ない道を選び直す。店の混み具合を見て、先に注文してからにしようと判断した。注文して受け取ったコーヒーをテーブルに置き、夫に肩を貸してトイレへ誘導する。
フロアの奥まで進んだが、そこにトイレはなかった。壁に貼られた館内表示を見ると地下にあることがわかり、夫に肩を貸して階段を下りた。二つあるドアの、鍵の窓が「空いてます」のサインの青になっているほうを開け、夫の背中を押してドアの向こうへ送り込んだ。
ここまで来るのも自力だとひと苦労だ。いちいち誰かに聞こうにも、聞ける相手がどこにいるのかも夫は見えていない。トイレを見つける前にトイレに案内してくれる人を見つける壁がある。
壁また壁。
ややあってドアが開き、「いるじゃないか!」と夫が顔を紅潮させて出てきた。追いかけるように「いますよー」と奥のほうから女性の声がした。
ドアには男と女のピクトグラムのプレートが貼りつけられていた。男女共用のトイレで、ドアの向こうにもうひとつ個室のドアがある仕様になっているようだ。
声の距離感から察すると、ドアの奥の個室に声の主が入っているらしい。さすがに個室のドアの鍵は閉めていたと思うが、空いていると思って入ったドアの向こうから人の気配がしたので夫は驚いて声を上げ、飛び出してきた。相手もこちらの状況を知らないから、男の人の慌てた声がしてギョッとしたことだろう。
公衆の男女共用トイレが問題になっているが、飲食店では以前からあり、ドアの前で異性と鉢合わせて何となく気まずかったりする。
夫は頭から湯気を立ち上らせる勢いで「空いてるって言ったじゃないか」と責める口調になっている。「知らないよ」とわたしもむくれる。ドアの中にドアがあって、そこに人が入ってるなんて知らないよ。
その間にコーヒーは冷めていく。
階段の上のテーブルの上で。
男と女のピクトグラムのプレートが貼りつけられたドアとは別のドアが開いた。音のしたほうへ夫が行きかける。「ダメ」と止めると、「なんで?」と口を尖らせる。
そちらのドアには女のピクトグラムだけが貼りつけられている。女性専用だ。
わたしたちの後ろに並んでいる女性にどうぞと譲る。いま夫が一人だったら、女性専用だと気づかずドアを開け、後ろの人に間違ってますよと注意され、気まずい思いをしたかもしれない。注意されなくても、ムッとされるか、ムムッと思われたかもしれない。
ピクトグラムの輪郭をなぞったら男女の形を確認できるのだろうか。壁のここにドアがあり、それがトイレのドアであることを確かめ、そこにピクトグラムのプレートが貼りつけてあることに気づき、男女の別まで読み取るのはかなり高難度だ。
仮にトイレの男女は何とか指で見分けることができたとして、もし、これが女性専用車両だったら、触って確かめることはできない。アナウンスに気づかず乗り込んでしまうこともあるだろう。
生まれついての全盲で「視覚を使わないプロ」を自称する西田梓さんは、音やにおいを目印にして頭の中に地図を描いているらしい。そのレベルであればメイクや香水のにおいを手がかりにその車両が女性だらけだと気づくかもしれないが、進行中の視野の欠損にアップデートが追いついていない夫は気づけるだろうか。「冷たい視線を向けられても、幸い見えません」とブラインドジョークを飛ばす境地にはまだ至っていない。
男と女のピクトグラムを貼りつけたドアはなかなか開かない。ドアに近いところからカサカサと微かな音が聞こえる。個室を出て洗面台でメイク直しをしているのだろうか。
その間にコーヒーは冷めていく。
階段の上のテーブルの上で。
テーブルには夫と観てきた舞台で配られたチラシの束も置いてきた。観たのはタカハ劇団の『ヒトラーを画家にする話』。映画のバリアフリー版制作をはじめ、コンテンツをすべての人が楽しめる形にする会社、Palabraによる鑑賞サポートつきの回だった。
上演前に出演者による登場人物紹介と演出による舞台説明があり、上演中は生の音声ガイドを貸し出しラジオで聴け、上演後は感想会があった。聴覚障害者向けには舞台手話通訳がつき、字幕タブレットの貸し出しもあった。
観劇のバリアを取り払う配慮がここまでアップデートされているんだとうれしくなった帰り道。「コーヒーショップで温かいコーヒーを飲む」という舞台鑑賞に比べたら難易度がかなり低そうなところでつまずいた。
「温かいコーヒーを飲む」だけならできたのだ。「トイレに行く」というミッションが加わったことで、これほどハードルが上がってしまうとは。
トイレに行くには、まずトイレがどこにあるのかを知らなくてはならない。たどり着いたトイレが空いているのかふさがっているのかを確認しなくてはならない。ドアの表示では空いていても、中に人がいることもある。そのトイレを使える性別の表示も確かめなくてはならない。
何につまずいているのかを知るところからバリアフリーは始まる。ひとつひとつのバリアを取り除いても、どこかのバリアで引っかかったら、そこで動線は止まってしまう。演劇の鑑賞サポートを充実させても、観客が劇場にたどり着けないと、作品を届けられない。だから劇場までの誘導が必要になる。点ではなく線で考えなくてはならないのだが、人によっては動線が無数のバリアの連続でできている。
壁また壁また壁壁壁。
用を足すまでにいくつもある関門を、視覚を使えるわたしは難なくこなしている。視覚情報が得られないと、たちまち世界はトラップだらけになる。
言葉の違う国で情報弱者の立場を経験することはある。トイレに行くと、表示が読めなかったり、並び方のルールや掃除の人にチップを渡すマナーを知らなかったりして、まごついてしまう。そんなとき親切に教えてくれる人がいて救われたり、舌打ちされて悔しい思いをしたりするが、一度失敗すると次はうまくやれる。
視覚をほぼ使えない夫は、行く先々のトイレで視覚情報の壁に阻まれ、カルチャーショックのような戸惑いを味わっているのかと想像する。住み慣れたこの国で。視覚が使えていたら一瞬で解決することに何倍何十倍の時間をかけ、遠回りする。その疲労とストレスは相当なものだろう。
「毎日がアドベンチャーだ」
夫が以前、緑内障が進行するなかでそう言ったとき、わたしは前向きな意味で受け止めたが、冒険にも色々ある。楽しむには余裕が必要だし、インターバルも欲しい。当たり前のことをこなすのに気力体力忍耐力を要求され、それが日常になっているのは気が休まらない。
夫と観た舞台の上演前説明会では、演出家の高羽彩さんが舞台を歩き回ったり、セットの階段を上ったり、窓から顔を出したりし、その都度手を叩いて「今いる場所」を知らせてくれた。大きな声で歩数を数えながら舞台の上を歩き、舞台の幅や奥行きやセットの高さを示してくれた。空間を頭の中に描いてから観劇することで、夫は物語の世界にすっと入れたと言っていた。
自宅のトイレで迷うことはないし、職場や行きつけの店であれば、頭の中に地図が描けているのだろう。選ばれし勇者でもないのに冒険を強いられている夫は、行く先々で描いた手持ちの地図を増やしていくことを迫られている。しかも、ミッションは日々難度を上げている。ゲームの中ならライフを補充できるが、夫のリアルなアドベンチャーは命がけだ。
男と女のピクトグラムを貼りつけたドアは沈黙している。わたしはそのドアを見つめ、夫は焦点の定まらない目をドアの前の空間に向けている。
その間にコーヒーは冷めていく。
階段の上のテーブルの上で。
さっき観てきた舞台の余韻も冷めていく。チラシだけ置いて席を取る手もあったか。いや、それはヒンシュクを買う。やはりトイレの後に席を取って、それから注文するべきだった。席が空くまで少々待つことになっても、温かいコーヒーを飲めたほうが良かった。
何か月か前、夫と出かけた帰りの別な駅での出来事を思い出した。わたしは次の行き先があり、夫が先に帰宅しようとしていた。駅の構内にコーヒーショップがあることを知った夫が「テイクアウトしたい」と声を弾ませた。
「うちに帰るまでに冷めちゃうんじゃない?」とわたしは言い、自宅の最寄駅にあるコーヒーショップで買うことを勧めた。
その途端、夫がとても悲しそうな顔になった。ぐにゃりと音がしたように表情が歪んだ。
しまったと思った。おいしいコーヒーを飲めると浮き立った夫の気持ちを一瞬で冷ましてしまった。と同時にわたしの理解のなさを伝えてしまった。
そんな簡単なことじゃないのだ。最寄り駅のコーヒーショップで注文にまごつくぐらいなら、コーヒーは我慢する。今わたしといるうちにコーヒーを買いたいのだ。家に帰り着くまでに多少冷めても、買えないよりは良いのだ。
そっかと思い直し、そうだよねと言い直し、一緒にコーヒーショップへ向かった。
あのときの夫の顔が忘れられない。この人はどれだけコーヒーを諦めてきたのだろうと思った。積み重なった諦めの重みに耐えかね、ついに崩れ、顔に出た。わたしの無神経な一言で。
女性専用のドアに次の人が入るが、男女共用のドアはまだ開かない。
今日は温かいコーヒーを飲めるチャンスだったのに。
「もういいよ」と夫が口を尖らせ、階段のほうへ足を向けた。
「もういいって?」
「外に人が待ってるのを知ってて、なかなか出てこないヤツを待ってられない」
夫の怒りは男女兼用トイレの中の人へ向けられていた。
待て待て。落ち着け。君が待っているのは、中の人じゃない。トイレが空くのを待っているのだよ。君が待ってくれなくても、彼女は痛くも痒くもない。待たせているとも思っていないだろうし、待ちくたびれて去ったことすら知りようがない。ここで立ち去って困るのは君だけだ。後から出直すとして、一人でこの場所に戻って来れるのか。それとも我慢するのか。時間とともに尿意が増すことはあっても減ることはない。そのうえコーヒーを飲むのだ。尿意は君を待ってくれない。
思うところは数百字あったが全文は口にせず、「ここまで待ったんだから待とうよ」と引き留め、こんなことにいちいち腹を立てていたら身が持たないでしょうと心の中で続けた。
男と女のピクトグラムを貼りつけたドアの向こうからはカサカサの気配だけが聞こえている。アイシャドウとチークと口紅だけならとっくに終わっていい頃だ。土台から作り直しているのだろうか。
「40年もやってるのに、なんでそんな時間かかるんだ?」とメイクに時間をかける妻を嘆いた脚本家仲間のぼやきが面白くて、そのセリフいいねとメモに書き留めたつい最近の出来事を思い出す。
夫婦は待たせ合いだ。妻が夫を待たせることも、その逆もある。今はトイレを待つ夫をわたしが待っている。そしてコーヒーを待たせている。こんなことなら時間潰しにつき合えば良かった。一緒にコーヒーを飲んでからトイレに誘導したほうが早かったかもしれないと思うが、今さらだ。
その間にコーヒーは冷めていく。
階段の上のテーブルの上で。
無言でドアを見つめていると、何を待っているのだろうという気持ちになる。ゴドーを待ちながら。トイレを待ちながら。隣の女性専用のドアは3人が入れ替わった後、空室になっている。
男と女のピクトグラムを貼りつけたドアがついに開き、中から女性が出てきた。ドアの前に立つわたしと夫を見ても、言葉はなかった。個室の外で驚いた声を上げたさっきの男性がまだ待っているとは思わなかったかもしれない。メイクに時間をかけたのか、他に時間をかける事情があったのか、女性の様子からはわからなかった。
夫が入ってドアが閉まり、再び開くまでは短かった。テーマパークのアトラクションの待ち時間と乗っている時間のような比率だ。
階段を上ると、コーヒーとチラシの束をのせたテーブルが待っていた。カップに触れると、思いがけず、まだ温かかった。厚みのあるカップの保温力に救われた。中身もまだ温かいことを願い、「後は大丈夫?」と聞いてうなずいた夫をテーブルに残し、店を出た。
コーヒーショップに入ってコーヒーを飲む。ついでにトイレに行く。そんな簡単なことが、こんなに大変なのだ。それが毎日続くのだ。考えただけで途方に暮れてしまう。本人はもっと途方に暮れているだろう。これまでも途方に暮れてきたのだろう。一日に何度も途方に暮れる場面があり、やりすごしたり、腹を立てたり、諦めたりしているのだろう。
今に始まったことではないが、何十年もかけて少しずつ不便になって、少しずついろんなことがままならなくなっている。それでも何とかこなせているのだと思っていたが、そうではなかったと行きつけではない店のトイレの前で突きつけられた。
一緒に暮らしている家族ですらわかっていないし、わかりきれないし、わからないことだらけだ。
ドラマだったらここでメインテーマが鳴り出し、妻が泣くところだなと思ったが、泣かなかった。その代わり書きたいと思った。もしも24時間テレビのドラマ脚本の話が来たら、トイレの前で待ち続けるだけの話を書きたい。
その間に原稿は冷めていく
2023年10月に下書きに放り込んだnote。一気に書いたことで気が済み、個人的な話でもあるので、そのまま下書きで眠らせていた。公開まで7か月余り、冷めるに任せていたことになる。
このnoteを書く少し前、西田梓さんのnote「三つのトラブルで感じた全盲であること」を読んでいた。
「視覚を使わないプロ」を自称する梓さんでさえ、職場から家に帰るまでの慣れた道のりでトラブルに遭うのだ。ましてや視覚を使えない歴の浅い新参者のわがダンナは壁にぶつかりっぱなしではなかろうか。と思った矢先に「壁また壁」の現場に立ち会うことになったのだった。
夫と観に行ったタカハ劇団「ヒトラーを画家にする話」のあらすじは「どこから間違えた?」という言葉で始まる。
「どこから間違えた?」と歴史を手繰ることと、障害者の生きづらさを紐解くことは似ているかもしれないとも思う。バリアフリーという言葉の中にはバリアは一つしかないが、現実には無数の壁が立ちはだかっている。
2023年11月9日、「劇場をアクセシブルに」というオンライン署名に賛同した。
「何がバリアになるのか知る、想像する。そこからバリアフリーは始まる」と書いたとき、階段の上でコーヒーが冷めていったあの日のことが頭にあった。
その後、「劇場をアクセシブルに」の呼びかけ人にも加わることになった。
2024年3月には、車椅子ユーザーの女性が車椅子席ではなく車椅子からの移動が必要な席で何度目かの鑑賞をした後で、今後同様の手助けはできないので、他の劇場(車椅子席のあるスクリーンという意味で言ったのかもしれない)でと案内され、淋しい思いをしたことを発信したところ、映画館の名前を挙げたこともあり、炎上した。
SNSでの反響を追っていたが、「他の人と同じように映画を鑑賞したい」気持ちを持つこと自体を贅沢、わがまま、傲慢と非難する声が驚くほど多く、読んでいて苦しくなった。当事者の中にも「主張の強い障害者のせいで、肩身が狭くなって困る」といった声があった。
バリアフリーな世の中を求めることで新たなバリアが築かれてしまうのは辛い。
「合理的配慮」への理解や見解がバラバラになっていることも感じた。「合理的」の解釈は幅広く、見解のズレを招きがちだ。
英語では、reasonable accommodation。内閣府のサイトの中に、「アメリカにおける合理的配慮(reasonable accommodation)の概念」のページを見つけた。
「障害者の完全な参加を可能に」するための「機会の調整」や「変更」の全体が「合理的配慮」という考え。「障害者の完全な参加を不可能にしているバリアを取り除く」ための「機会の調整」や「変更」と考えると、「合理的」よりも具体的でわかりやすい。
「こういうことに困っています」
「では、どういう解決方法があるでしょう」
まず、お互いの立場や事情を知ろうとすることで、歩み寄りの会話を重ねていけたらと思う。
西田梓さんは「障害があるからこそコミュニケーション力が必要なんです」と言う。何に困っているか、何があれば、できないことができるようになるか。ここにこんな埋め合わせが必要だと的確に伝えられる力。
バリアフリーを考える師匠でもある梓さんがモデルの「白杖のカズサさん」という人物を連載中の小説「漂うわたし」に登場させている。においや音を目印に頭の中で地図を描いているというエピソードは、第44回「においと音で描く地図」に書いた。
相手を知らないと、良かれと思ってしたことが空回りしてしまう。思い込みがすれ違いを招くこともある。障害者をひとくくりにはできないし、視覚障害者と言っても症状や重さは人それぞれで、目で読む代わりに指で読む人もいれば、耳で読む人もいる。使い分けている人もいる。
第154回は「配慮ってどうするんだっけ」。
何ができて、何ができないかは一人一人違う。
障害当事者側も、合理的配慮を求められる側も。
まず、お互いを知ること、理解すること。
歩み寄りの気持ちが配慮のスタートラインだと思う。
目に留めていただき、ありがとうございます。わたしが物書きでいられるのは、面白がってくださる方々のおかげです。