見出し画像

片割れ靴下劇場


片割れ靴下は名言を呼ぶのか

わが夫は受け狙いをして滑るタイプだが、たまに面白いことを言う。珍しいので、記憶に残る。

たとえば、

オット「関西人って嫌い」
わたし「そうなの? わたし関西人だけど?」
オット「それで嫌いになったんだよ」
わたし「(絶句)」

という夫婦の会話の切れ味はなかなかだ。どこまで本気なのかわからないが、小噺のようなおかしみがある。

夫が(そしてわたしも)うんと若かった新婚時代、酔っ払ってゴキゲンで帰宅した夫に

「洗濯機に入って回れぇ〜」

と謎の命令をされたのも忘れがたい。人は酔ったときに本音が出る。抑えていた「妻を洗濯機で回したい願望」があふれ出たのだろうか。

広告代理店勤めの傍ら脚本を書いていた当時のわたしは「頭では書けないセリフ」と感心して腹を立てるのを忘れていたし、会社でも香ばしいネタを提供できた(その後、夫はわたしの同僚に「洗濯機で今井を回そうとしたダンナ」とからかわれ続けた)が、言ってることは相当ひどい。今ならパワハラ認定で一発アウト。離婚の理由になりかねない。

「洗濯機離婚」。なかなか斬新。

「離婚だ!」の危機にはまだ直面していないが、夫が怒りにまかせて「離婚」を口走ったことはある。

「なんで、うちの靴下はみんな離婚してるんだ!」

ペアになれない片割れ靴下の軍団を嘆いての一言。相方とはぐれた靴下たちを「離婚」にたとえた。本人は切実なのだがおかしみがあり、これまた香ばしいセリフだ。

靴下問題が離婚問題に発展しかねないくらい、わが家の靴下の離婚率は高く、復縁率は低い。洗って干して取り込むまでは、たしかに両足揃っていたはずなのだが、いつの間にか相方が消えて独り身になっている。家のどこかにブラックホールがあるとしか思えない。

「靴下離婚」。洗濯機のインパクトには負ける。

もう片方の靴下

わたしのnoteで公開している掌編シリーズ「さすらい駅わすれもの室」に「もう片方の靴」という話がある。

シンデレラとおぼしき若い娘がガラスの靴を探しにわすれもの室を訪ねる。そこに、ガラスの靴のもう片方を持った青年がやって来る。もう片方の靴を探すふたりは、もう一度会いたい片割れの相手を求めていた……。

はぐれてしまった「もう片方」を想う切なさは物語を呼ぶ。それがガラスの靴ではなく、よれよれの靴下であっても。

そんなことを思ったのは、久しぶりにわが家で「片割れ靴下劇場」が上演されたからだった。

仲人になったり発掘調査員になったり

今回靴下の相方探しに挑んだのは、夫ではなく夫の母だった。

「待ってても全然顔見せに来てくれないから、こっちから行くわ」と電話があり、翌日にやって来た。いつもは「コーヒー飲みに行くわ」と言うのだが、今回は「片づけに行くわ」と言う。わが家の散らかり放題をお見通しの千里眼。

夫の父がコーヒーを飲まないので、夫の母は普段インスタントコーヒーを飲んでいる。うちでわたしが挽きたての豆でコーヒーを淹れると、とても喜ばれる。というか、わたしが褒められるのはコーヒーくらいだ。

「コーヒー飲みに行くわ」と言われなくてもコーヒーは出すのだが、まずは受け入れ態勢を整えなくては。

「お義母さんに片づけてもらう状態にするために片づけます!」

と宣言し、片づけかけたが、あまり進まないうちにチャイムが鳴り、時間切れとなった。

夫の母はリビングに入るなり、「はぁー」と呆れ、「何から手をつけていいかわからないわ」と惨状を嘆き、靴下の発掘に取りかかった。床の地層から掘り出した片割れ靴下を両手に一本ずつ持ち、お見合いをさせていく。

「お義母さん、仲人みたいですね」

キッチンでシンクにたまった洗い物を片づけながら(あまりにため込むので「水かびの研究でもしてるの?」と夫にイヤミを浴びせられたこともある)カウンターの向こうへ声をかけると、

「まとまらなくて困っちゃう。これとこれ、いいなと思ったんだけど、色が違うのよねえ」と嘆く。

「いいなと思った」というのがお見合いをすすめる仲人目線だ。くっつける気まんまんなのだが釣り合わない。

手持ちの靴下で縁談が成立しないことがわかると、夫の母は発掘を再開する。新たな片割れを見つけ、待機している片割れと引き合わせる。実に根気強く。

「お義母さん、発掘調査向いてるんじゃないですか」とわたしが言うと、「掘っても掘っても出てくるのに、合わないのよねえ」と発掘の手を止めずに嘆く。

リビングの堆積物は層になっていて、掘り起こし甲斐がある。発掘が進み、片方だけの靴下がふえていく。やはりブラックホールは存在する。

一時間ほどして、夫の母は「あーくたびれた」と諦め、わたしが淹れたコーヒーをおいしそうに飲んだ。

天井を見上げてコーヒーを飲む

うちで夫の母がコーヒーを飲むと、思い出す名言がある。

「下を見てると色々言いたくなっちゃうから、上見てる」

下を見ると、足の踏み場もない床がある。上を見ると、フェイクグリーンがぶら下がっている。上は上でうるさいが、まとまりはある。

床に比べるとすっきりした天井。リアルとフェイクのグリーンが入り混じって垂れている。

この日も夫の母は天井を見上げてコーヒーを飲んだ。

「お義母さんが押しかけてきて片づけるの、嫌じゃない?」と友人たちに言われるが、今はまったくストレスを感じない。

「今は」というのは、できないくせにカッコつけて、できるフリしてた時期があったからだ。そして、そのせいで、痛い目に遭ったからだ。

エスニックおせち事件

ある年の大晦日、仕事が忙しくてしばらく(といっても3週間ほど)顔を見せなかったわたしに「大晦日だけは来るのね。食べて行くのね」と夫の母が嫌味を言い続けた。

ネチネチ言われながら食べたきりたんぽ鍋は味がわからなかった。紅白を見ずに帰ることにした。

「もう帰るの?」と引き止められて、すかさず言った。

「おせち料理を作りますので」

嘘だったけど、精一杯強がった。

「あら? おせち作れるの? エスニック?」

切れ味抜群の切り返し。

泣くもんかと張り詰めていたのに、「エスニック」の5文字に不意打ちを食らって緩んだ途端、破水したかのように涙がドバッとあふれ出た。緊張と緩和は笑いも呼ぶが涙も呼ぶ。

エスニックおせち事件との前後関係がうろ覚えなのだが、わたしは自分のことを「タッパーの嫁」と呼び、「エプロンの嫁」である夫の弟嫁と立ち位置を分けることにした。手伝う気まんまんでエプロンを持ってくる嫁がもう一人いると、ポジションの取り合いになってしまう。エプロンの代わりにタッパーを持って行き、「わたし、持って帰る気まんまんな嫁」と開き直ったのだ。

日本政策金融公庫という政府系金融機関の月刊誌「AFCフォーラム」に「食事にまつわるエッセイ」を寄稿することになったとき、ネタの候補のひとつに「タッパーの嫁」を挙げたところ、ぜひそれで書いてくださいと言われた。

月刊誌「AFCフォーラム」寄稿 「タッパーの嫁 エプロンの嫁」今井雅子

食いしん坊ゆえ、わたしの書く脚本には、やたら食事の場面が出てくる。何を食べるか具体的に指定し、時には作る過程も描く。においや味を想像しながら書くので、おなかが空く。NHKの連続テレビ小説「てっぱん」を書いていたときは、お好み焼きが無性に食べたくなった。しかも、ヒロインが暮らしている下宿は、料理上手な祖母の賄いつき。おなかが鳴って仕方がなかった。

正月に尾道へ里帰りしたヒロインが母と雑煮を作る場面では、母娘は調理の手を動かしながら、土地ごとに違う雑煮の味について話す。結婚したら嫁ぎ先の雑煮を作ることになるのかと想像するヒロイン。そしたら尾道の雑煮は食べられなくなるのか。どっちも食べたいから正月の一日と二日で違う雑煮を作ると言う。

その場面で「大阪のお雑煮は白味噌なんよ」という台詞が出てくる。わたしが生まれ育った堺の家の雑煮は白味噌で丸餅だった。嫁いだ東京の家は、塩を振った鰤のだしのおすましで四角い餅。夫の父が育った長崎の味らしい。

雑煮以上に驚いたのは、塗りのお盆に美しく盛りつけられるお節料理。伊勢海老が鎮座し、まわりに黒豆や紅白なますや数の子や芽の出たくわいをちょこちょこと並べる。運動会のお弁当のようにお重から皿に取り分ける今井家スタイルに比べて、ずいぶん格調高い。お屠蘇を順番にいただいて「おめでとうございます」とあらたまって挨拶を交わすのも新鮮だった。

さらに思い出深いのは、夫の弟のお嫁さんが初めて来た正月のこと。彼女は手伝う意欲まんまんでエプロンを持って現れた。いつものようにおかずを持って帰る気まんまんでタッパーを持って現れたわたしとの差は一目瞭然。

以来、「長男の嫁はタッパーを持って来て、次男の嫁はエプロンを持って来る」と姑にからかわれることになった。しかし、一家にエプロンの嫁が二人いると、どちらが良い嫁か張り合ってしまう。棲み分けができているほうがラクだし平和なのだ。しっかり嫁の座は弟嫁に譲り、わたしはちゃっかり嫁の座に納まった。この話、ネタとしてもおいしい。いつか「タッパーの嫁とエプロンの嫁」を書いてやろうと思っている。

視界に入らなくなった片割れ靴下

エスニックおせち事件は「タッパーの嫁」を名乗り始めた後だった気がしてきた。タッパーの嫁なら「エスニック」をふてぶてしく受け流せたはずなのだが、嫌味の連打に揺さぶられ、キャラクター設定がブレてしまったところに不意打ちを食らい、トドメを差されたのかもしれない。

おなじことを言われても、時によってインパクトは変わる。「エスニック」の5文字に泣かされたあの日は、わたしも余裕がなかったのだろう。大晦日くらいはとなんとか時間を作って駆けつけたのにネチネチと嫌味を言われ、心が折れてしまったのだ。若さもあったかもしれない。今ならそれくらいのことで泣いたりしない。

今朝、「靴下がないよ」と夫が言った。「はいはい」とわたしはぞんざいに返事をして、ひと組のペアを成立させ、夫に投げた。

受け損ねて足元に落ちた靴下を夫は手で探し当てる。

何日かに一度繰り返される朝の光景。

緑内障による視野狭窄が進み、夫は目で靴下を見つけることができない。目の前に靴下を近づけても、色や模様の見分けがつかない。

そんな夫が靴下を呼ぶ場面をドラマや映画で描くとしたら、妻は夫の手に靴下を握らせるだろう。夫は妻に礼を伝え、穏やかに微笑むだろう。麗しい夫婦愛。

現実は、もっと雑で、ぞんざいだ。恋愛が生活になるように、非常事態が日常になり、気遣いがこぼれ落ちる。もう少し優しくできないのかと夫はわたしに思っているだろうし、わたし自身もそう思う。もちろんこれは今のわたしと夫の場合で、新婚時代だったら違っただろうし、長年連れ添った夫婦でも様々だろう。

夫が片割れ靴下軍団を見て、「なんで、うちの靴下はみんな離婚してるんだ!」と嘆くことは、もうない。

それでもわが家の靴下は独り身になりたがり、夫の母はひと組でも多く復縁させようと見合いを進める。

わが家の片割れ靴下は変わらない。ただそれが夫の視界に入らなくなっただけだ。

……という下書きを数か月寝かせていた。

思い出したのは、福山雅治が全盲の捜査官を演じるTBSドラマ「ラストマン 全盲の捜査官」を夫が見ていたから。もちろん解説放送(音声ガイドつき)版。ストーリーが面白く、視覚障害者の描き方もリアリティがあり、「できることとできないことを切り分けて、できないことを的確に伝えられる主人公が魅力的」と次回を楽しみにしている。

視覚を使えなくても、音声ガイドがあれば、ドラマも映画も楽しめるし、読み上げソフトを使って文章も打てる。できないことを文明の利器やまわりの人が補うことで、できることを活かせる。自分で靴下を組めなくても、かわりに誰かが組めたら、左右揃った靴下を履いて出かけられるのだ。

ただし、視覚が使えても、靴下を組めるとは限らない。

相方募集中のシングル靴下たち。

2023.5.11追記。

わが家の片づかない歴を物語るアイテムがあったことを思い出す。謝楽祭(落語協会のお祭り)で林家彦いち師匠に「板割り(労り)」してもらった「部屋が片づかない」の板。

あれから5年。部屋はまだ片づかない。もちろん、その前からも片づいていない。

板が見つからないのでツイートを。

clubhouse朗読をreplayで

2023.4.30(note公開日)伊藤富士子さん

2023.5.2 中原敦子さん

2023.5.3 こもにゃんさん


この記事が参加している募集

多様性を考える

目に留めていただき、ありがとうございます。わたしが物書きでいられるのは、面白がってくださる方々のおかげです。