更年期障害08 | 活字が苦手になる

更年期障害で活字が苦手になった。恐ろしいぐらいに「文字を読む」という行為そのものをする機会が減ってしまった。もちろん、年齢による老眼も相まってのことなのだが、同じ姿勢を保って、黙って、文字を目で追いながら「読む」ということができなくなってしまった。平たく言うと、堪え性がなくなった、ということだ。

私は比較的、地味な行為、同じことをずっと黙って続けることが得意な子どもだった。なんならその「同じこと」を黙ってやりながらも何かしらの工夫を見出して、新しいやり方を考えたり、時短できるようにしてみたり、そんなことが好きな子どもだった。読書家というほどではないものの、人並みの数の本は読んできたし、それが億劫だと思ったこともなく、同じ姿勢で同じ本を何時間も読み続けることの難しさや苦悩などはもちろん感じたこともなかった。

しかし、だ。更年期障害の時期が到来し、世の中に自分の味方がどこにもいないと思ってしまっている精神状態で唯一と言ってもいい味方は本であるにもかかわらず、その本をじっと黙って読み続けることができない。いろんな思いがよぎり、読んでいるページから視線がそれる。目で文字を追っているはずなのに、全く内容が頭に入ってこない。文字は目で追っている、しかし、頭が理解していないから、数ページ進んだところで「はて、何が書いてあったか?」と数ページ戻る。そんなことの繰り返しで、およそ読書と言えるようなものではない行為に果たしてどのぐらいの時間を費やしたのだろうか。

自分の唯一の味方であるはずの本とさえ距離感を縮められない自分にまた憤り、結局どこにも私の居場所はないと思ってしまう悪循環。そんなことが続いて、さらに自分がいやになり、読書すらしない時期が何年かあった。活字に触れない数年間。人とも分かり合えない、というか、わかってもらえないと思い込んでいるとても残念で不自由な状態。そして活字からも離れる。ある種の鎖国のような状態を自ら作り出し、数年間、そこにとどまった。

更年期障害は、一生続くものではないというのは、それが終わったからこそ言えること。当時は、このまま一生こうだったらどうしようと思っていた。本も読まない、人とも交わらない、心を開かない、伝えない、受入れない。人としての生活で、極めて異常な事態だが。無事に「鎖国」は終了し、更年期障害にも期限があったのだと知った。

今は、ぼちぼち読書をしている。老眼は相変わらずなので、小さい文字は辛い。それだけで読む気が萎えてしまうこともあるが、適度な明るさの場所で、老眼鏡をかけて本を読む。これもまた良し、と思っている。長時間読み続けることはやっぱり難しいので、少しずつページを読み進めていくのが今の読書の仕方。その年、その時なりの読書の方法があるんだと知る。

更年期の真っ最中だとなかなかわからないかもしれないが、必ず終わりは来る。だから、今その最中の方には、ぜひ「終わりが来るから焦らなくていい」と思っていただきたい。活字が苦手になることがあっても驚かないで欲しい。「そんなこともあるんだよね」で済ませてしまうのが一番いい。

同じような悩み・経験をしてきた方とつながれることや共感できること、そしてこれから先に辛い思いをする人が少しでも減ることを願って書いていきます。サポート、よろしくお願いいたします。