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AIR SPICEの撮影と挑戦すること 06

前回は水野さんが撮影現場を外部に開いていく独自のオープンマインドが、全体の、そして結果としては個人のクリエイティブに有益な影響を与えているのでは?というお話でした。

しかしこれはあくまでも自分の直感のようなもので、こんなふうに言い切っても良いのだろうか、、と本人に相談したところ、面白がってくれたのでこのまま続けたいと思います。

やっぱりどこかで「自分としては、こう思う。」と言い切らないと、なんだかグズグズした文章になり先に進まないんですよね。。

普段の話し言葉なら、気楽に話せるけれど、文章を書くということを高尚に捉えすぎていたのかもしれません。

それでふと思い出したのですが、知り合いの映画評論家のTさんが言っていて、なるほどと思ったことがあリまして。

何かについて論じるということ(評論)とは、まず自分が間違うことを受け入れることだー。


そうなんです。主体的に自発的に何かをすること、そしてそれを発表すること。

この行為をプレイヤーと言い替えても良いと思うのですが、そこには常に間違うリスク・恥をかくリスクを伴います。

自分の思うこと・言うことなんて矛盾だらけだし、全てを解っているわけでもありません。運が悪ければ、誰かに抗議されたりすることもあるでしょう。

誰かから怒られないように、穏便に、最大公約数的なところでOKと思われるものを作るー。

これはこの数年の日本で(本当は誰も望んでいないのに)より強固になってきてしまった固定概念のようにも思います。

誰かからお墨付きをもらえるような優等生的な正解を探してしまう。なんか良さそう、でも、何かがピンとこないんだよなー。

そう、本当は正解も不正解もなくて、結果を背負う自由な選択を自分に与えてあげることで、創作はもっと伸びやかになっていけるのかもしれません。

この正解も不正解もないという言葉。実はカレーの学校に入学してまず教えてもらったものでした。

当初はカレーのことを何もわからず丸腰で入学してしまった為、手っ取り早くまずはわかりやすい王道や正解を教えて欲しい!と思ったものですが(笑)今ではそれがボディーブローのようにじわじわと「それでよかったんだ」と思えているのが不思議です。

(つづく)

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