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小学校を5回転校した話

最初の転校 千葉県船橋市から東京都中野区へ

父は証券会社に勤めるサラリーマンだった。
幼稚園の頃西船橋の(たぶん)社宅だった当時流行りのマッチ箱のような団地に住んでいて近所の公立小学校に入学した、らしいがあまり記憶は残っていない。
記憶はすこし曖昧だけど、とにかくそこでピカピカの一年生になった。
夏、早起きして(というかいつも5時半に起床する子どもだったらしい)、父に虫取りに連れて行ってもらう、という(たぶん)楽しい記憶が残っている。

入学して1年と1学期後の小2の秋、東京都中野区に引っ越した。理由は不明。転勤だったのだろうか。そして中野区立の小学校に初めての転校。
そこは校庭がコンクリートで、土じゃない・・・とかなりびっくりした。あと、光化学スモッグ注意報というのが頻繁に発令されていて、それが発令されると、鯉のぼりのできそこないみたいなのが国旗のポールみないなのにひらひらと泳いでいた。それが出ると校庭で遊べなくなるので、ちょっとイヤだった。
小2の途中で父が再婚した。
思い返すと、すでに幼稚園の頃から実母の姿は生活の中になく、父方の祖母が私の面倒を見てくれていたのだが、あまり違和感なくやってい。そうしたら、なんの説明もなくある日そういう事になった。いや、もしかしたら何か説明されていたのかもしれない。でも私の心には届いていなかった。事態が飲み込めないままステップマザーとの同居が始まり、優しげなおばさんが突然お母さん?と、なんとなくモヤモヤした、ような気がする。
そういえば歩いていける所に有名な少女漫画家さんが住んでいるとわかって、友達と2人でサイン欲しさにお宅訪問しちゃった。どうして住所がわかったのか不明だけど、一緒に行った友達がそもそも知り合いだったのかな?ずいぶん迷惑な話だけど、当時の私としては大冒険で、やさしく対応してサインしてもらった。あの色紙、しばらーく飾ってたけど、どこにいっちゃったかのかな。

2回目の転校 千葉県千葉市へ

小学校4年に上がる春、千葉県千葉市に引っ越した。今度は父がマイホームを建てたのだ。最寄り駅からバスで15-20分位かかり、そこから更に7-8分弱歩くような山を住宅地に開拓した場所の平屋の庭付き一戸建てだった。
都会のど真ん中のコンクリートの校庭から、田んぼのあぜ道を歩いて登校する生活になった。たしか4年の時の担任の先生があまり好きではなかった。ザリガニ釣り、ツクシ取り、缶蹴り、縄跳び、なんかして遊んでた。
この頃を思い返すと、何も考えてない子どもだったような気がする。全体にもやのかかった断片的な記憶しか残っていない。感情のひだみたいなものが麻痺していたのか、記憶がどんよりしていた。何かを楽しんだ記憶があまり残っていない。4年生が終わる前に、同居していた父方の祖母が亡くなった。幼稚園の頃には既に母代わりだった祖母なのに、なぜ臨終のお別れをさせてもらえなかったんだろうか、と時々思い返す。私が親の立場なら、多分会わせてあげたいと思うだろうに。私のことをとても可愛がってくれた祖母なのに。
もしかしたら私の記憶が間違っているのかもしれない。
あるいは、そういう時代だったのかな。

3回目の転校 ドイツ・フランクフルトのインターナショナル・スクールへ

小5の夏、父の海外赴任が決まってドイツに行った。
1970年代当時、海外赴任に家族がついて行くのは(たぶん)当たり前だったので、子どもに選択肢はなかった。今考えると、普通は友達と別れたくないとか思いそうなものだけど、そんな強い繋がりを誰にも感じていなかったらしく、悲しい気持ちはなかったように思う。感情の動きの薄い子だったのかもしれない。
当時はヨーロッパに行くのに直行便はなく、アンカレッジ経由でそこで燃料補給していた。アンカレッジで一旦飛行機を降りると、トランジット・エリアにうどん屋があってみんなここでうどんを食べた。当時、このアンカレッジのうどん屋は日本人には超有名で、親について海外に出た子たちの中で知らない人はいなかった。
フランクフルトに全日制の日本人学校はなく、土曜日に国語と算数を教えてくれる補習校があった。それで、日本人の子どもたちはインターナショナル・スクールかドイツの現地校に通った。私はインターナショナル・スクールに行くように最初から父が決めていたので、9月新学年が始まる時、新小5として(つまり半年遅らせて)、スクールバスでこの学校に通い出した。
どうも、私にはここの水が合っていたようで、英語はYes, No位しか知らなかったのに、とにかく学校に行くのが楽しかった。きっときまりの少ない自由な学校だったのだろう。思えば、この辺りから私の記憶のモヤが少しはれて、感情を伴う色のついた記憶が増えていく。
学校に行くのが楽しいなんて、初めて思った。それまでも、行きたくないとは思っていなかったと思うが、習慣で行っていただけだった。

通学初日、2時間目と3時間目の間におやつの時間があって、たまげた。おやつなんて(!)、学校に持っていっていいの?って。
すごく真面目そうな年配の女性の担任の先生が、教卓にポンと腰掛けてクッキーを食べていて、今までの常識が覆された瞬間だった。
お昼休みに食堂に移動して、高校生まで同じ空間で昼食を食べた。ピザとかグミとか当時の私としてはすごく魅力的なものを売っていた。1970年代前半に、日本の片田舎の公立小学校に通っていた私にとっては、びっくり仰天な体験の連続だった。

1日1回一般の授業を抜けて、英語ができない子達の数人単位での英語のレッスンをしてくれた。30分位だったと思うけれど、これがまた楽しかった。授業を抜ける特別感と、英語がわかっていく面白さがたまらなかった。
一般のクラスでの国語と社会は、90%わからないからほぼおまけ状態で、みんながノート何枚ものレポート書いているとき、先生に説明されて渡される3行位の文章をノートに写し、みんなは添え物として小さく描く挿絵を、特大サイズで描いて提出した。
数学は、クラスの中で3ランクに分けて難易度の違う教科書を使っていたが確か3人ほどいた日本人はみんな一番難易度の高い教科書を使っていた。
美術も音楽も体育も、日本と比べるととても自由だったように思う。
ドイツ人とオランダ人とイスラエル人の女の子たちが仲良くしてくれて、色々教えてくれるようになった。
イスラエル人の女の子の家には、一度泊まりにおいでと誘われて泊まりに行った。ごはんもお風呂も、なにもかもいつもと違って不思議な体験だった。

週に一度の日本人学校の補習校に行くのも楽しかった。
土曜日だけ思いっきり同じ境遇の日本人同士で会って話すのが楽しかったし、日本語で授業を受けるのも楽しかった。
海外の日本人学校に集まってくるのは、企業などの転勤族の子どもたちが多めで、自分自身も何度か転校経験があり「来るもの拒まず去るもの追わず」気質な人が多いのだろう。そりゃ、とても居心地が良かったはずだ。

4回目の転校 兵庫県神戸市へ

小6の夏、1年間のフランクフルト生活が終わってステップマザーと2人で帰国した。帰国して最初は神戸市内のステップマザーの妹の家に数ヶ月お世話になった。父はまだドイツに残っていたのだろう。妹が翌年3月に生まれているので、妊娠がわかって一足先に安心できる日本に戻ってきたけど、家を誰かに貸していてすぐに戻れなかった、とかかなと今は想像している。

こうして1学期間だけ神戸市立の小学校に転校することになった。
これが、最悪だった。関東の言葉がだめだったのか、最初に男子を”君”つけで呼ばなかったのがいけなかったのか(今までずっと名字呼び捨てがスタンダードだったのでわからなかった)、はたまた私の態度が自由すぎたのか、クラスで浮いてしまって、いじめという程のことではなかったと思うが、友達が一人もできなかった。こんな経験は生まれて初めてだった。ここでも私は心を消しているらしく、あんまり記憶がないのだけれど、おかげで読書の楽しみを知った。
思い返すと神戸での生活はかなり孤独だったと思う。
義母には好かれていない気がして心を開いていなかったし、友達も一人もいないとなると当然といえば当然だ。心が壊れなかったのは、きっとそれが2-3ヶ月の話だったからだろう。当時を思い返しても学校で会話した記憶がほぼない。
でも本の世界は面白かった。図書館には読み切れないほどの本があったから、児童文学の類はたくさん読んだ、と思う。なんか小人が出てくるファンタジーなんかを読んだ記憶が残っている。休み時間をどう過ごしたらよいか困って図書館に避難していたのかもしれない。

5回目の転校 再び千葉県千葉市へ

小6の3学期、ドイツに行く前に住んでいた千葉市の家に戻った。
かなり安心した、と思う。毎日通う学校に、普通に会話できる人がいるというのは助かったはずだ。でもなんだかこの辺りも全然記憶がない。
妹が生まれる、という大事件もあまり受け入れられておらず、でも漠然と私は邪魔者化するのではないかと心穏やかにおられず、バランスを崩していたのかもしれない。この頃、特に楽しいこともなく、夢も目標もなく、どうやって生活していたのだろうかと思う。テレビや少女漫画なんかには関心があったと思うけれど、今思いだそうとしてもあまり思い出せないんだよなあ。

そうしてあっという間に3ヶ月を過ごし、9割以上が一緒の中学に進学するので数週間後にまた顔を合わすのがわかっており、1学期しか過ごしていない担任の先生には特別な思いなく、涙も1ミリも出さず、小学校を無事卒業する。

こうして旅芸人の子でもなんでもないただのサラリーマンの子が、6年間の小学校生活で5回の転校で6校を渡り歩き、最短1学期、最長でも1年と2学期という目まぐるしい変化の中、私の小学校生活がやっと終わる。この転校につぐ転校で、良くも悪くも「後ろは振り返らず、前しか見ない」という反省のない性格を身につけたのであった。
今は昔、世が高度成長期と言われていた時代のお話です。

#創作大賞2024 #エッセイ部門


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