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絆 2.0―支援継続のための仕組みを―

年があけてすぐに、産経新聞から取材依頼があった。震災から10年が経った今、あのとき声高々に叫ばれた「絆」とは一体何だったのかを振り返る企画だった。

縁あって、震災直後から「ふんばろう東日本支援プロジェクト」という大規模な支援システムが立ち上がる過程を目の当たりにした。プロジェクトの創設者である西條剛央氏が学会の基調講演者として決まり、氏の仕事をちょうどフォローしていたからだ。このシステムを使えば(氏の基調講演とシンポジウムでの発言をまとめた論考「人間科学とコミュニケーション―構造構成主義に基づく『ふんばろう東日本支援プロジェクト』の活動を通してー」を参照)、福岡からでも効率的に物資を送ることができると思い、学生らに呼びかけ、多少の支援活動をしたことがあった。また、その時の経験をコミュニケーションの研究会の依頼で論考にまとめ、研究室HPに掲載していた(「ポスト3.11のコミュニケーション―『絆』の分析を通して―」)。話によると、この論考が記者の方の目に触れたらしい。

震災から1、2年経つと、ともに活動していた学生は卒業し、支援も物資から経済に移り、学内での活動が難しくなった。サークル化までした活動であったが、そこで終了となった。

あれからさらに時間が経ち、以降情けないほど何もできていなかったため、後ろめたい気持ちが強く、本当は取材を受ける資格などもない。しかし、だからこそ自分なりに振り返ってみたいとも思い、書面でよければということでお引き受けした。実際に使われたのは数行だが、それが以下の記事だ。

以下は、取材への返信メモである。

「絆」とは想像

文字通り大量の水が無慈悲に街を飲み込んでいく恐ろしい映像は、見ている人たちにとって圧倒的な現実感をもたらすほどのものだった。

目の前で誰かがひき逃げをされ、大けがを負ったとき、全員と言わずとも、ほとんどの人が声をかけたり、手を差し伸べたりするだろう。震災当初見られた「絆」の大合唱は、まさに「今」「ここ」で突如起きたひき逃げと同じリアルさゆえに、替わってあげることはできないが、それでも被災地が受けた苦難をともに乗り越えよう、そういう思いの現れであり、行動の集積である。その純粋さに偽りはない

震災から10年がたち、私を含め、多くの人たちがそれぞれの日常に戻っていった今、そこに「絆」は生まれたのか、今そこに何が残っているのか、私たちは考えることがでるもしれない。とはいっても、絆とは人と人を実際に結んでいる紐やロープではない。その実体は、良くも悪くも、想像上のもの、すなわちフィクションだ。

「絆」のリアルさの喪失

「絆」とは、目に見えないゆえの二つの効用を生みだした。

一つは、主観的だからこそ、よりリアルに感じられたということ。つまり、主観的にその存在を仮定された絆を確認し、安心することができた。だからこそ、助け合おうと思う人が出てきたのだろう。

もう一方で、同じく主観的だからこそ、時間と空間の隔たりにより、リアルさが色褪せてしまうという現実もある。これが現在起こっていることだ。二人の永遠の絆を可視化するための結婚指輪が、いつしか身体の一部として完全に同化し、あまりにも当たり前すぎてその存在が意識に上らないように、時間と距離の隔たりが現実感が希薄にしてしまう。

こうした絆のリアルさの喪失は、求められる支援が次の段階に移ったことにより、一層加速した。

震災で物が壊れ、流されたときには、衣食住の充実のために物資が必要だった。それは支援として形があり、目に見えやすく、また、インターネットやSNSを利用したマッチング機能により、必要なものを必要な分だけ必要な方々に届けることが可能となり、支援に参加する側も自らの支援行為を実感することができた。

しかし、ある程度物が行き届くようになると、事態は自立を助ける経済支援の段階へと入っていった。つまり、お金という抽象的で交換性の高いものの支援の段階に入ると、一気に自分自身の経済状況や家計との祖語や葛藤の方がリアルさを増す。震災そのもののリアルさが色褪せ、自分の生活のリアルさがそれを凌駕したとき、私たちは日常生活に戻ってしまった

「絆」ができたのではなく、再確認に過ぎなかった

「絆」の大合唱を経て、今こうして最後に残った「絆」とは、どのような形をしているのだろうか。思うに、震災以前も以後も同じ形をしている、つまり、もともと「同じ日本(人)」として当初から想定されていた「つながり」のさやに戻ったのではないか。

Facebookの「お友達」や携帯電話に入れた友達の番号は、一度登録されたら日頃メッセージの交換や電話をし合わなくても、意識されないだけで「つながり」が想定されている。実家に電話を入れなくても、元気に変わらぬ毎日を過ごしているだろう、と安心しきっている、そしてその安心感さえ意識に上らない状況に似ている。語弊を恐れずに言えば、あのときの「絆」の大合唱は、(同じ日本として)もともとあったと想定されていた繋がりが揺らいだ際に、それを確認することだったのであり、震災の前後で何も変わっていないのではないか。

本当は、「絆」あるいは「がんばろう」という情緒的な言葉だけでは、あのときのリアルさを持続することはできなかったのかもしれない。本当は、時を同じくして、日頃から関係が断絶されていた人々、地域同士がもっと気楽に助け合えるような仕組みを作っておくべきだったのだろう。クラウドファンディングや「投げ銭」の行為が身近になった今だからこそ、日頃の消費行動(例えばネットショッピングやイベント参加)がいつの間にか被災地への経済支援につなげることも可能だろう。

ドライな言い方だが、人は忘却する動物であるから、善意や崇高な思いや気概だけでは支援も長続きしない。むしろ、「絆」の強調がかえって人々を前者に留まらせ、後者への移行を遅らせてしまったという面がある。精神論で戦争に傾倒していった約80年前も、ウイルスとの闘いに自粛要請で乗り切ろうとしていう現在も、このような「失敗」が繰り返されているように思ええてならない。

今や絆を「情緒」から「社会的機能」や「仕組み」へとアップデートしていく必要があるのではないか。すでにつながっている状況を想定するのではなく、断絶した地域や人々を機能的につなげることができるアーキテクチャという意味での絆に。

上記のような支援が回り持続するような仕組みの構築は、今からでも遅くはない。10年を節目に、支援継続のための「絆 2.0」への昇華が、国や社会、個人からどんどん出てくることが期待される。


本日、2021年3月11日。10年の節目と言っても、被災地ではそんな節なんてなく、一日一日の連続のなかで通過する1日でしかないのかもしれない。こんな自分はその1日をどう通過すればよいのか。戸惑いのなか、取材の時に「絆」について考えたことを思い返しながら、この日、この時を、迎える。

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