「だから最近の若い奴は」「昔はなあ」が発奮材料になるかえ? ほぼ意味ないって。
古い本を読んでいて改めて知った。大正生まれの人は明治生まれの人からバカにされていたらしい。大正時代、漢文素読が圧倒的にすたれ、大正自由主義教育なるものが出回ったため、大正生まれの人は「大正生まれは舶来思想になびいている」と睥睨されたそうだ。とはいっても大正生まれもまた昭和生まれをバカにした。昭和一桁台生まれの人は戦中生まれを、やはり「戦争の苦労を知らない」と評した。で、戦中生まれもまた日教組全盛期に育った世代を「だから団塊の世代は」となじった。団塊に限らず戦後生まれについては、もはや何をかいわんやである。やがて"新人類"等々なぞの茶化しまで発生した。
旧世代が新世代を「だからダメなんだよ」と否定することはある種の儀式である。古代の石碑にも「最近の若いやつらは……」という碑文が出ていたと言われるくらいなので、これは人類普遍の、いや、農耕文明以降の人類普遍の作法なのだろう。一世代30年という括りをつくったのは確かマンハイムだったと思うが、世代で括るという作法は、上記儀式を作動させるのにうってつけだった。しかもそれは、若者への単なるやっかみだけでは作動しない。新しい考えへの無理解だけでも働かない。たとえば昭和30年代生まれは「チョコレートやケーキに甘やかされ、柿やスモモがなる他人の家の木から、実をこっそり失敬するスリルを知らない」といった形で、ガチで「かわいそう」という目で見られた。昨今でも「これだからゆとり世代は」といった形で儀式が継承されているのはご存じのとおりである。世界三大宗教など比較にならない程この信仰は根強く生き残っている。
たぶん奈良時代の人に対して平安時代の人は、やはり「いみじうかろがろし」とか言っていたと思う。
まあ、そうやって旧世代から見下されて、「何を!」と後輩が発奮できるのなら、それも何らかの意味があることになるのかもしれない。その「意味」といっても、あくまで旧世代の物差しで測った時に「ある」と見做される意味でしかないが。そもそも旧世代と新世代では価値観がズレているし、良し悪しの物差しが違う。ルールが違う。だから、比較すること自体に意味がない。「バスケとサッカーでどっちが強いか」的なクソ議論で言い合いをするようなものである。もちろん、長い歴史の中で民族や国民が集団的に劣化することはあり得るので、その文脈で世代論を活用することには一定の意味があるだろう。特に、ベネディクト・アンダーソンがいうような出版文化等による大衆の出現、新聞やテレビ・雑誌などで情報を得るツールがある程度決まってきた時代になり、またオルテガがいうような知識階級と他、みたいな構図が大衆の「知識人にお任せ主義」を生んだ近代以降は、世代論の有用さに光も差し込んだかもしれない。
例えば社会学者の宮台真司さんはこんなことを言っている。
「このままでは日本の子供はダメになっていくでしょう。なぜなら親が感情的に劣化しているからです。感情の劣化とは、刷り込まれた言葉のプログラムに閉じ込められた『言葉の自動機械』、法に閉じ込められた『法の奴隷』、ポジション取りに勤しむ『損得マシーン』になること。これらは神経症の徴候です」(引用元は最下に記載)
子供と親という立て分けは、世代と真っすぐイコールではないけれど、世代論的な意味合いも含んではいる。世代は時に便利な「語法編み」につながる。しかし、世代自体に実体的本質はない。世代の存在を強固に信じすぎていいことなんてない。世代を盾にして後生をなじるのはバカのすることである。
旧世代と新世代は端的に異質だ。いまは21世紀で、多様性の時代で、異質性から学ぶのがジェントルメーンやレディーのご作法の時代で、何ならそれは大事なことでもあるので、むしろ世代でやんややんやするくらいなら、「どうか一つ、教えてください」みたなマインドに新旧お互いがチェンジすればいいと思う。邪魔なのは、互いのプライドと睥睨の気持ちだけではないか。
あ、その気持ちは、デカい、の、か。容易には打ち砕けないか。
僕にはしょぼいハードルにしか見えないけれど。
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