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山本七平賞2020奨励賞を受賞した近内悠太さんの「群像」エッセイの感想

哲学者や思想家について語っているときに年配の先輩方からよく「その人どこ大出身?」「どこで博士号とったの?」と聞かれる。僕にはそういうことを知ろうというマインドがないため、大抵、答えられない。何々学派とか系譜学みたいなものを見渡したいのだろうか。でも、それに答えられたことがあっても、その後の会話でそれがプラスになったことがあまりない。左派だとか京都学派だとかシカゴ学派だとかいう、出身校的なもの、「てめぇどこ中だコラ? あ?」的なものを僕は気にしない。ただ、目の前のテキストを吟味するだけである。

そんな妄想にふけりながら雑誌「群像」を手に取ると、そこに近内悠太さんのエッセイがでていた。近内さんといえば思想書『世界は贈与でできている』でジャンル異例のヒットを飛ばしている書き手だ。そんな彼が「群像」に「天文学的比喩としての他者」という随筆を寄稿した。

大学で宇宙工学を学んでいた僕は、タイトルに目を惹かれ、しかも書き出しに出てくる天文学者オーレ・レーマーの名前を見て、そのまま一気に読んでしまった。レーマーは、木星とその惑星イオの観測から「それまで未知(無限)とされてきた光に、実は速度があると気づいた」人として知られている。ずっとずっと、星を見続けた人だ。あたかも天文学の父・ガリレオのように。僕も星空を眺めることが好きだけれど、"観測が人生の主"みたいなガリレオにとっては、まさに星空に飛び込んで、地球の外に出て、"直接、星を吟味してぇ!"と思ったに違いない(これも妄想)。

だが、現実には天文学者は、木星にも惑星イオにも触れられない。学者は、天空から見れば地上にへばりついているような、そのようにしてしか星々を調べられない。

そこで近内さんはこう書く。

「他者とは、距離の遠く離れた惑星のような存在である」(「群像」2020年11月号341頁)

なぜそう言えるか。近内さんが述べる理由については、今月号の「群像」を手にとって確認してほしい。だが、僕もこの妙句には共感する。なぜなら、他者、他人は、どこまでも「わからない」存在だからだ。他人の心の中に入り込んで直接知ることなどできないからだ。

父母のことは、僕はよく知っている。でも、すべては知らない。わからないことがたくさんある。父の幼い頃のこと、母の幼い頃のこと、出身の小学校なんて、まったく知らない。"母ならきっとこうするだろう"という予想だって、たびたび外れる。当然ながら、面と向かって座っていたって、いま父母が何を考え、次に何をするかは予想できない。というか、わからない。わかっていることより、わからないことの方が、実は、はるかに多い。そのわからなさの地平は、まるで無限の彼方まで続いているかのようである。ということで、哲学者エマニュエル・レヴィナスは『全体性と無限』という本をこしらえてしまった(少なくともその「わからなさ」を題材にした)。

また、「君のことはもうわかったよ」と言われると、たぶん人はムカつく。なぜなら「てめぇの知らねぇ俺がいんだよ」と思うからだ。すべてをとらえられたかのようにされることに、人は嫌な気持ちを抱く。確かに、「もうわかったよ」というその「君のこと」について全てがわかるという事態は、原理的に起こり得ない。他人の心は、惑星のように、直接しらべられないからだ。むしろ「コイツのことはもうわかった」と思った瞬間、人は、相手の新たな側面を知ろうという動機を減らす。「コイツはこういうヤツ」という理解に収まり、なんならその理解を相手に押しつけようとする。そう、「君のことはわかった」と思った瞬間、その人の中から「君性=他者性」は消えてしまうのだ。他者不在とは、このことをいう。この問題意識に立って社会学者マルティン・ブーバーは『我と汝』という本を書いてしまった。

他人のことは、究極よくわからない。

しかし、だからこそ、「わからない。けど、知りたい」と欲し、あるいは「知ろう」と意識し、自身が抱く印象やイメージに相手をあてはめたいという欲に抵抗する構えが大事だ。そうしてもらった方が、大抵の人はうれしいものである。「君のことはもうわかったよ」にイラっとくるのは、そのうれしさを人が知っているからだ。

僕も、人を知りたい。

近内さんと呑んだ時、まさにそんな感じで、いろいろ質問したり、語ったりした。特に、哲学者ウィトゲンシュタインの話をした。言語ゲームや写像理論の話もした。さらに、「ウィトゲンシュタイン哲学」の前期・後期を画する例の"あの瞬間"についても声を大にして確認し合った。僕は、「えっ。どこまで知ってんのこの人。ウィトゲンシュタインについて何の話をしても、ツーカーじゃん。ああ、さすがは思想書を出す人。ご専門以外の哲学者についてもこんなに詳しいのだ」と感動した。すげぇ、と。

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いや

違うのである。

家に帰ってググって知った。

何と、近内さんはウィトゲンシュタインのご専門だったのだ。「やべぇ、『どこ大出身』とか、『どこで博士号』とか、調べときゃよかった」と背中に汗をかいた。贈与論で本を出しているから、てっきりマルセル・モースとかマリノフスキーとかのご専門だと思っていたのだ。うへぇ。

人を判断するときに、決して、印象やイメージの型にはめるようなことはしてはならない。

近内さん、また呑み、行きましょ。






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