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株式会社BODY BASIC代表/キックボクシング元ミドル級王者・今野顕彰さんの自分史|インタビュー(聞き手:ライター正木伸城)

みなさんは「家族」と聞くとどのようなイメージを抱くだろうか。それこそ育ってきた家庭環境によって「それぞれ」かもしれない。温かい絆を想像する人もいれば、凄惨な場だったと振り返る人もいよう。ジャパンキックボクシング元ミドル級王者で、株式会社BODY BASICの代表を務める今野顕彰こんの・あきら)さんは、目立つキャリアとは別の次元で、そんな「家族」について考えてきた一人だ。彼は自身の来し方を整理する意味で、本サービス(詳細は最下方)に応募してくれた。ここでは彼の活躍の"舞台裏"に迫っていく。それは家族について、また「依存」や「自立」について考えさせられるものだった。

裏切られた過去を告白

威風堂々たる体格。柔和な態度。新宿のカフェで語る今野さんには自信がみなぎっている。しかし、そう話を振ると、彼から意外な答えが返ってきた。

「自信なんてチャンピオンになった時まで持てなかったです。僕の人生で言えば、自信が持てるようになったのはごく最近のこと。それまでで迷いなくガッツポーズを取れるほど自己肯定ができたのは、妻と結婚できたことだけでした。自尊心の低さにずっと悩まされてきたというか……。もともと僕は野球をやっていたのですが、実は土壇場で結果を出せないままできました。忘れもしないのが小学6年の時のこと。当時の僕は自分で言うのもナンですが相当に期待されていて、ピッチャーでした。しかもチームはリーグで優勝・準優勝しかしないレベルの高さ。僕が登板する際も『優勝は間違いない』と見る向きが大勢でした」

ところが、本番で今野さんは投げ方がわからなくなってしまったという。結局、1回戦で敗退。彼のチームの監督をしていた父から激怒された。

「その経験が感覚的にまとわりついて、『俺は土壇場で自分を裏切る人間だ』という想像にやられ続けました。僕は、住んでいた行政区の代表・野球のキャプテンをしていましたが、肝心な時に肘を壊して試合に出られないこともあった。中高の部活動や格闘技を始めてからもそんなことが続きました。初のタイトルマッチに負けた時なんかもまさにそうで」

自信が持てない中での格闘。特にスポーツを人生のメインとして選んだ今野さんにとって、それは相当に苦しい過去だろう。野球は自信喪失の原点だった。しかし、彼の身体的な能力の基礎が野球で形づくられたのも事実だという。野球は楽しかった。特に野球エリートで甲子園にも出場し、ノンプロで活躍していた父親の影響は大きかった。「でも」――突然、軽妙だった語り口が重くなった今野さんが、うつむく。

「僕は、父に裏切られたんです」

父の悲惨な"実状"を知らされずに育つ

とつとつと言葉をつむぎ始める今野さん。まずは生い立ちだ。

「僕は次男として生まれました。上に兄がいて、両親と4人暮らしでした。もともとは家族が大好きでしたが、今は相当難しい関係にあります。5、6年、音信不通だった母が2020年に亡くなりました。父は存命ですが、正直『この人、終わってる』と大人になってから思い知りました。兄とは、母が逝去した時などに1、2回連絡をとった程度です。僕には妻がいて、自分の家庭は幸せです。でも、大人になって実家に帰ることはまずなかったし、親や実の兄との関係はほとんどないですね」

家族関係に複雑さを感じさせる話である。幼い頃は和気あいあいとした家族環境だったのだろうか。

「当初はそう思っていました。ですが後々、家庭不和というか、『あれって「別居」だったんだ』『最初から両親はうまく行っていなかったんだ』という事実を知ることになります。父がギャンブルにどハマりしていたんです。借金も抱えていました。でも僕は20代になるまでそれを知らなかった」

何と、今野さん以外の家族みなで"実状"を今野さんに隠していたという。家族円満を周囲は"演じて"いて、彼一人がそれを信じていたのだ。

「僕にだけは幸せそうな家族像を抱いたままでいてほしい、ということだったとは思うんですけど……。僕と兄は父に野球を教わっていました。めちゃくちゃ練習しました。それが素直に楽しくて、その他、家庭環境のことも含め、悲惨な現実には気づかなかったです。それだけに、大人になってリアルを知った時には裏切られた気がして本気で怒りました」

この「裏切り」が禍根となり、実は、冒頭に述べられた彼の「自信のなさ」にもつながっていく。

ガラガラと崩れて行く家族円満の"虚像"

今野さんが中学2年生の時に両親は離婚。当時住んでいた神奈川を出て、母親の実家(新潟)に引っ越した。しかし、その時も家族にうまく説明されて、両親の不仲には気づかなかったようだ。むしろ父親から教わった野球の芽が出始めていたため、彼は父を慕い、中高時代の反抗期にあっても時々かかってくる父からの電話に出て、野球の悩みなどを相談していた。では、父の借金やギャンブル漬けについてはいつ知ったのだろうか。

「離婚の時点で知ってはいました。でも、大した額ではないだろうし、父を人格的に信頼していたので、父に対する思いは変わりませんでした。スポーツを通して接する父は、僕だけでなく皆からも慕われていて、父に教えを受けた他の子たちは30年ほど経った現在でも『今野さん(=父)に教わっていたから、いま何があってもつらくない』『あの頃があったから今の俺がある』と言うんです。父って人当たりがすごくいいんです。すごくいい人が、裏で変なことを画策している、みたいなところがあった」

だからこそ、父親に対して「何か変だぞ」と思い始めてからは、円満だと思っていた自らの家族像が音を立てて崩れていく感じがした。

「それこそ僕が結婚するまで、父のことは引きずっていました。『親父を立ち直らせることができるのは俺しかいない』という使命感みたいなものを持っていたんです」

父親が本性をあらわにしてくる。学生時代に一人暮らしを始めた今野さんは、ひょんなことから家に父親をかくまうことになった。以降、父は彼に依存していく。驚いたのは彼が就職してボーナスをもらった時のことだ。

「父に全部使われたんです」

さすがに「コイツおかしいぞ」と思った今野さんは、父親を出ていかせた。

「でも、電話がすぐに来ました。あたかも、何もなかったようにして『わりぃ、泊めてくんねぇかな』って。僕はスパッと断れなくて……。父は愛知の瀬戸物の会社で働いていました。デパートの催事で陶器を売っていたらしいです。で、関東圏で催事が開催される時は『顕彰の家から通いたい』と言うんで、泊めていました。ところが、僕からも借金をし始めるし、父は会社で『横領』までしていたんですね。僕のカネが盗(と)られ始めた時に、初めて兄からいろいろ聞きました」

実は、今野さんの兄は大学を中退している。それも父親がらみだった。兄が暮らしていた大学の寮に父が現れ、「金を貸してくれ」とせびられた時に、兄はそれを断わった。が、周囲の寮生に父親が迷惑をかけ始めたため、そのカドで兄が大学を辞めざるを得なくなったのだという。

「『親父のクソぶり』を打ち明けられた時、兄には気の毒だと思いつつも、僕は『なんで早くそれを教えてくれなかったんだ!』と言いました。怒りしかなかった」

今野さんが出した一つの結論

しかし、である。人当たりの良い一面も見せていた父親のこと。そういった人格の片鱗はまだ残っていたのではないか。そう問うと今野さんは首を横に振った。

「もうその頃には『何も頑張らない父』になっていました。というか、そもそも僕が幼い当時から父はおかしかったんです。たとえば親戚からお年玉をもらいますよね。それを机にしまうわけですけど、すぐになくなるんです。僕は兄がやったと思っていたけれど、父が盗っていたことが後にわかりました。僕が抱いていた『理想の父』像と『現実の父』のクズっぷりにギャップがありすぎて混乱しましたよ。人間、どうしても譲れないものってありますよね。僕の場合、妻がそうですが、父にはそれがないというか、父は自分の欲望のためだけに生きていました。家族の大切さを『ギャンブルの大切さ』が悠々と超えていくんです。僕自身どんどん被害を受けていくうちに、父の『終わってる感』を悟りました」

これは家庭に困難を抱える家族のサポート現場でよく聞かれることだが、悲しいかな「子を愛さぬ親」はいるというのが実状である。「そんな親はいない」と言う人もいるかもしれないが、現実にはそうやって親の愛を信じて痛めつけられ続ける子どもが後を絶たない。今野さんの例は、その一つなのだろうか。

「僕は父の姿を見て『愛のない親はいる』と感じています。だからこそ父を反面教師にして、強烈に『家庭を大切にしよう』と思っています」

父との縁を断ち切る

そんな今野さんが格闘技に出合ったいきさつについてここで触れたい。

「僕が格闘技を始めたのは大学4年の時です。大学卒業直後の4月6日にプロデビューしました。サラリーマンと格闘家、二足のわらじを履いて生活をしていた。当初の練習は、仕事終わりの22時や23時からということもザラでした。翌朝は7時に出社です」

大変な状況である。まさに毎日が時間との勝負だ。そんな時節に、また父親が今野さんに"手"を出し始める。仕事と練習でその頃の彼は基本、家にいなかった。その"不在"を父が突く。

「当時つき合い始めたばかりの今の妻がうちに泊まった時のことです。その翌日、僕は6時頃に仕事に行くために家を出ました。その間際、妻には『寝てていいよ』と声をかけました。ところが、です。7、8時ごろに妻から電話がかかってきたんです。第一声に驚きました。『たぶん、お父さんが帰ってきたよ』って……」

これは、おかしな話だった。なぜならその日、父は催事で関東を離れ、何週間もこちらには「いないはずだった」のだから。

「怖いですよ。帰って問い詰めると、『わりぃ、お前がいない間、家借りてたわ』と言うんです」

父は、不在にしていた彼の家にたびたび勝手に上がり込んでいたのである。

「さっきも言ったとおり、父は横領などもしていて職場に行けないことが多々あったのでしょう。そんな時に僕の家に滞在していた。でも、その時の僕は妻との『これから』を考えていました。だから『ああ、このまま父にまとわりつかれていたら、俺の人生はない』と思って、その日のうちに物件を探して引っ越しました。夜中に仲間を集めて、みんなで大移動です。ほぼ『夜逃げ』です」

だが、そう簡単に連絡を断ち切ることはできない。父親は、突然いなくなった今野さんと連絡を取ろうとして、まずは警察に頼ったという。その時点で父は職を失っていたようだが、なりふり構っていられなかったのかもしれない。突然、今野さんのところに親戚から「お父さんが警察にいるらしい。会ってくれと言っているぞ」と電話がかかってきたのである。「これはマズイ」と思った彼は、その時まだ引き払えていなかった「前に住んでいたアパート」にすぐに戻り、手続きを始めた。その時である。アパートの家に入った瞬間、インターホンが激しく鳴った。

「父でした。父は、僕がそこに来るのを待っていたんです。その時、僕も警察に頼ろうと決めて110番をしました。父の声を聞いたのはあの日が最後です」

今野さんは、脱力感に襲われた。以降、彼は父親の過去の悪事をさまざまに知ることになる。

「それから13年……14年かな。父はプータローから路上生活などに至ったようです。僕は『父は死んだ』と思って、その頃には忘れてすらいたのですが、長い時を経て、一回父を見かけました」

場所は、ドラッグストアだった。関わりを恐れた今野さんは、すぐにその場を立ち去ったという。

「ゾッとしましたね。通っていたジムからそう遠い位置ではなかったので。たとえば父が所属ジムに現れたらどうするかとか、いろいろ案じました。結局そんなことは起こりませんでしたが」

以後の消息は確認しているのだろうか。

「去年ですけど、突然役所から電話がかかってきました。父が生活保護を受ける云々の話でした。電話口で役所の方が『お父さまを引き取ってください』と言うんです。僕は全力でお断りしましたし、親戚にも協力してもらいつつ、あの手この手で父との関係を断ちました。最後、役所の人に『お父さまが亡くなられた時、連絡はしますか?』と聞いてきましたが、それも『要りません』と言いました。この電話で最後、縁が切れたと思います」

格闘技を通じて"呪縛"を振り払う

父親の実状は悲惨だが、とはいえ家族である。影響は甚大だった。特に、野球エリートだった父とレールを重ねるようにしてスポーツの道に入った今野さんは、キックボクシングを始めてからも「父に依存していた」という。

「スポーツ選手としての心構えとか、そういう話ができるのが父だったからです。モチベーションの上げ方のアドバイスなんかも的確でした」

野球少年時代から格闘家時代の中盤まで、今野さんにとって父親は精神的な柱でもあった。そんな父に裏切られたのだから競技に影響がないわけがない。

「あんな父を持った僕です。父のクズっぷりを知って自尊心がさらに保てなくなりました」

何もかもが崩れていった先に、何が残ったのだろう。

「純粋に、自分の内側からわき上がって来る動機です」と今野さんは語る。

「実は僕、たとえば野球なんかは『好きだ』と思ったことが一回もなかったんです。じゃあ、なぜ続けていたのかというと、父の期待に応えたかったとか、離婚した母が寂しい思いをしないようにとか、周囲が喜んでくれるからといった理由でした。そもそも野球を始めた理由も、家族が振り向いてくれるからといった事情があったのが最初です。でも、それって僕的に言えば自分の"外"に動機の根っこがある状態です。もちろん"外"をモチベーションにして頑張れるスポーツ選手はたくさんいますが、僕はそれ『だけ』では頑張れなかった。自分の"内"側からわいてくるモチベーションが必要でした」

それが、純粋に競技が「好きだ」という思いだった。「〇〇だから競技をやっている」といった「理由」以前に、まず「好きだ」という気持ちがあって、競技の追求ができる。そういう根っこが確固としてあった方が、今野さんは頑張れたという。格闘技はその意味で最高だった。

「キックボクシングは、僕が好きで始めたものです。自分で選び取った人生の選択肢でもあります。野球は『他者依存』の動機、格闘技は自発的な動機で始めた。これは大きな違いです。どういった違いになるかというと、野球は指導者依存=父依存で追求するものになっていたんですね。父があっての努力、父があっての練習とも言える状況です。でも、格闘技は――関係が近いと思っていたため、父依存にはなりかけましたが――ギリギリのところで自発の競技として取り組めた。この自発の部分、自立の部分があったからこそ、父の裏切りに遭っても耐えてチャンピオンになれたんだと思います」

このくだりについて、次節で詳述したい。

ミドル級王者になる上で支えになったもの

今野さんのこの心理を「車」に例えて説明すると、こうなるかもしれない。野球を一台の車だとしよう。野球に打ち込んでいた時代、今野さんは野球の車に乗っていた。その時、ハンドルは父親が握っていて、彼は助手席に座り、"同乗"しているだけだった。ところがその後、彼は格闘技に出合い、運転席に座ることになった。自分でハンドルを握ったのだ。では、もともと運転席にいた父は? 今度は助手席である。今野さんは同乗している父のナビゲートに耳を傾けながら、キックボクシングの車を運転した。自身が父の目を気にしながらハンドルを取っているとも気づかず――。

そこに「父の裏切り」が差し挟まってくる。父は、車を降りた。その時に、彼は初めて純粋に「一人」で運転をすることになった。ナビゲートは、ない。彼は動揺したが、一人になったからこそ逆に自立して「自走していなかった」自分にも気づけた。そこからは自分のハンドリングの始まりだ。

「自走できるようになったことで一番に得られたのは、自分の努力について『俺はこれだけ積み重ねてきた』と思えるようになったことです。努力の蓄積が自信になったんですね。過去の僕は他者依存だったために、自分の努力の手応えをそのまま自信に転換できなかったんです。純粋に自分でしたことなら、自分の努力として受け容れらるじゃないですか。でも、それこそ父に依存していた時は、努力を『自分の』努力として感じられなかった。父の存在が大きすぎて、努力が自分だけのものな『感じ』がしなかったと思うんです。だからでしょう。練習しても練習しても自信につながらなかった。僕が頑張れたのは、格闘技の『好き』に立ち返ったことと、この『自信』のおかげです」

自走している状態と、自走していない状態。それは精神的には微妙な違いかもしれない。しかし、「同じことをやっていても、自走しているか否かで、やっぱり全然違うんですよね」と彼は言う。自信を得た後に彼がチャンピオンになったことは、みなが知るところだ。

今野さんは今年3月に引退。現在は、これまでの経験を活かし、スポーツを通じてのさまざまな啓発活動を展開している。

「今が、一番自分らしくやれています」

そう語ると、今野さんが笑顔になった。「もちろん、妻の支えあっての僕です」と本音を吐露しつつ――。彼の笑顔で、インタビューは幕となった。

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