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週間レビュー(2024.8.11)lets make a culture that cultivates new empathy literacies

今週は腰を据えて作業する時間が少なく、行く先々の合間で資料や思考整理をして人と話すの繰り返し。移動が多いが、あえて対面でできるだけ赴くのはやはり重要だと思う。提案型かつ1対1の接触によって物事はかなりの速度で進む。オンラインでもコミュニケーションは十分だが、交渉は相当に難しいし逆に準備コストが嵩むと思う。企業はお盆休みに向けて詰めており、今週はみんな忙しそうだった。


実務への想像、一緒に道具を生み出すこと

アカデミアでは文字を触り論を組み立て、社会や環境から現象を発見を型として構成していくことを主としていたが、クリティカルな未来洞察をすることや建築の領域的展開や次の企業の戦略、プロダクトやユースケースを生み出そうとする時、どうしても実務がわかること、職制として完璧にわからないとしても言語を交わせること/交わしたいと思えることが重要なんだと気づいたりした。

交わるというよりも、共感やすり合わせというべきなのか。とにかく相手の目線や視座、思考を察するという視点移動ができないと難しく、そのためには、相手がどんな仕事をしてきて、何を日常的に考えていて(考えるように言われていて)関心を持っているのか、その上で何にチャレンジしたいと捉えているのかを立体的に想像し、対話によって輪郭を露わにしていくプロセスが非常に重要だと思う。

同世代と協働しようとするとあまりにもそこができなくて、悲しくなる時はある。「私のプロダクトを使ってもらえるのか?」という一方的な話や「私のしたいこと、私がやることなのか、私の時間を使うのに値するのか」という自分主語から抜けられないこと、または「業界として肌が合わず、やる気が見えないのでやりません」というような結論を下すことが多々ある。うーん、どうにも稚拙な判断をする器だなと思う。

こちらを想像して想ってくれる人がいたら、その人のために何が可能なのか、どうしたらできるようになるのか、交わりどころを見つけるからこそ、新たな道具を発明したり実験をすることができたりをしてきたはずで、私の押し付けや対話や創造を諦めることではないはずである。

とにかく自分の思考のネットワークの範疇に相手を当てはめようとするのではなく、相手のネットワークに委ねてみる、探り合ってみるという時間をできるようになる必要がこれからはあると思うし、私の中にあるツールや道具、ソリューションに当てはまらなかった瞬間に即座に困り事や選択肢を選ばないと判断するのはいかがなモノなのか?

社会を謳うのにも関わらず、何かを放棄している気がする。僕らの世代が未来を作るのであればあるほど、先に歩いている人の感覚や意識、経験から構成されるネットワークを知ろうとしなければいけない。そこへの想像力を持たねば愛される会社や事業にはできないと思うし、ただの道具屋に成り下がってしまうので、自分や自分の会社ではそうならないようにしていきたいと思う。

(葬送のフリーレンを見ていたら、勇者ヒンメルがたくさんの人を助けながら旅路を進んでいた。「急がないといけないのではないか?」と戦士アイゼンは唱えるのだけど、ヒンメルは「世界は変えないかもしれないけど、そのような旅路を歩みたい」と言う。フリーレンは、ヒンメルが助けた魔法使いと出会い、あの時ヒンメルが私を助けたから魔法使いを志したと伝えられ、ヒンメルは世界を変えているよと微笑むシーン。あれはこう言う感覚に近いと想った。)

葬送のフリーレン5巻 47話「フェルンと焼き菓子」より

具体の科学とものづくりのエコシステム(生産組織)

「カーボンニュートラル」が達成した社会には面白さがない、ダイナミズムがない、この世にあるコンプラやポリコレ…ガチガチに固められてダイナミズムを引き起こすことのできない場所になる、これからは。相当ものをつうる人としては苦しく辛い時代になるよ君たちの世代は。という先生方の感性は共感できるしそうだろうと思った。

パワハラや旧時代的なコミュニケーションにより生産クオリティが上がることは確かではあると思うし、それ以上のものがないだろう。が、しかし私たちはそうではない形を発明しなければいけない。未来は、きっと人の想像の範疇を超えない時に、私たちは何を想像しどのように組み立てたい、生み出したいとするのかを考えなければならない。

そのあり方にエコシステムの姿は紐づいてくるはずなのだが、あらゆるスタートアップ施策や新価値創造のお話は、どこかその前後関係と設計思想がぶれているように感じる。誰も全体像を組み立てることをせず、切り分けられたものを精一杯に達成しようとする。どこか諦めとこだわりのなさがあるのだろう、とても虚しいと想ってしまう。

先週、レヴィ=ストロースの「具体の科学」は生産組織論と読み替えることはできることを発見した。彼は未開人と称してものづくりや儀式等の発生や創造原理を読み解いている。特に模型の重要性、そして外に開くのではなく、手持ちのものを再整理するのはエンジニアであるが新たな回路を紡ぎ、識の制限の中で物事に取り組む、あらゆる「部品(物語や物体、イメージなどあらゆるメディア)」を抽象と具体を操作しながら作り上げるのである。

おそらくこれからの生産組織に必要なのは、「具体の科学」であり、一部はラピッドプロトタイプなどに参照されているのだが、更なる拡張に可能性があると思う。「lets make a culture that cultivates new empathy literacies」と友人が言ってた通り、これからの創造のカルチャーはempathy、そしてBricolageの哲学と考え方である。先代が生み出し、産業により固定されているboundaryを超えた対話や部分を組み合わせたCreationだ。

狂気の拠り所

現代において、狂気はどこにあるんだろうと思う。比較的学歴に高い人々と仕事やプロジェクトをするとき、彼らの中に狂気を見出すことが僕はできない。狂気をこちら側から喚起しないといけない。だからそこの葛藤やぶつかり合いが起きにくいのが残念になる時がある。何か突き動かすものが根本的に違うことを自分は理解しているし、理解しなければならない。パンを毎日食えないからパンを食えるようになろう!という欲動とは一味違うのである。

狂気とは、必死に表現したい、好きであることを伝えたい、ここで価値発揮しなければどうにもならないみたいな焦燥感と苦悩の上にある衝動である。クリエイターや何かを始める人に必要なのはそのような姿勢であるし、そこからしか文化は生まれない。

危機をクリアに認識し、行動化できている企業人がちゃんといることを知っている。そのような方は若い人が頑張っていることを笑ったりしない。自分が信頼して対峙できるとしたらそのような人たちである。自分はそのような人と仕事を生み出していきたいし、非常に建築的行為だと思うのである。

建築家はそれをしない、あくまで細胞となっている、細胞は骨格や臓器を知らない、あくまで細胞であろうとするのである、細胞に誇りを持ち続けた結果、臓器の存在を忘れてしまったのだろう。しかし、一つの生命の形をを構成するのはやはり生産組織であり、企業であり、つまり臓器なのではないか。スケルトンとインフィルを認識せねば社会的な建築のあり方を想像しで気はしない。

清水建設歴史館

清水建設220年の歴史がまとめられている常設資料館を見学。とても良かった。清水喜助は技術的建築家であり、もっと理解するべき人物だと認識した。清水喜助が辰野/佐野/横河/中條とともに日本建築界先覚者遺徳顕彰で表彰されているのも頷ける。まさにダイナミズムを引き起こし、ダイナミズムの中で建築を生み出し続けた人である。擬洋風建築のような発明は磯崎の和洋化のような日本論の原形あるのだろうと思うし、やはりこれからは設備と生産の時代であり、歴史はその上でベクトルを定めてあげることが重要なのだと思う。もう一度ダイナミズムを作りたい。


プロジェクト設計や企画書、建築やデザイン系の仕事を回してみることを通して、どのような社会価値を生み出せれば良いのか20%くらい?は見えてきている。また2年ほど走らせる中で、世界の動きや社会のあり方もまた変わるのでハマるものや描けるものも変化するのだけど、これはまた、まとめて公開したい。

同時に実務をベースに毎日を組み立てると、時間軸や空間軸の往復の観点が減っていることがよくわかるようになったので、1週間に2~3冊程度は本を読むこと、そして海外系のプロジェクトを2025年初っ端から動かすことができるように、個人的には英語でのインプットと英会話をやりたい。これら目標設計はお盆の休みで行おうと思う。


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