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祈りを棄てる

建築やデザインという存在を、自身のアイデンティティの拠り所にするために縋ってきたところがある。巨大な概念、社会に対する姿勢や切り開いてきた先人に憧れることによって、現在的で即時的な行動を正当化してきたことは否定しようがない。母数が少なくそれらしいので対外的な説明にもなる。

好きなことだから、建築やデザインを表現するために手を動かしていることも、頭を使っているのもやはり気持ちが良い。快楽になりうる。コンペで勝てば、競争に勝ち表現を認められた全能感を味わえる。周辺に集う仲間や友人とのつながりや議論も楽しい、難しく私たちにしかわからない何かを言葉で世界を彫刻している気持ちになれる。心地よい苦しさと負荷を得ながら毎日を過ごす。そして不快なものは外部化し、祈りや念に変換しておこう。その道に進み続ける限り、エンドレスの快を得られるのだから。きっとその快や祈りを捧げ続け、その道を歩み続けることもできるのだと思う。この道で真っ直ぐ名をあげて、生活のために稼ぐこともできるだろう。

それでも、全てを手入れたとしても、その先には虚無と後悔が待っている。お金に色はないけれど、自分の何に価値を認められたのかもわからず、そしてどこから回ってきた、誰から奪った金なのかわからないもので飯をたべ、家賃を払い、恋人と過ごし、そして娯楽を楽しむのだろうか。いいや、快や祈りが金や生活に変わるのだから、それも素晴らしい日々なのかもしれない。生活を人質にされても、変わらぬ日常を守りたい。私の周りさえ良ければひとまず良いとしよう。不快な事実や違和感に対しては祈りを捧げ、嘆き、そして念じることで対処しよう。

しかし、そんな日常をとっさに壊されたら容赦なく怒り、大きなものに当たり散らかすのだろう。自らを顧みず、慌て狂って愚痴を吐き、平気で人の心を抉り、想像性を無くす。そんな人間の姿を見て碧碧とする。祈りを捧げ、嘆き、そして念じることは、決して免罪符にはならないことは誰しも知っていただろう。そうならないという確証はどこにあると言うのだ。

私たちは生きているだけで残酷な何かに加担している。気持ちの良い日常や空間、風景を見ると時に不安に駆られる。美しいものは怖い。見えないものも見ようとしないことも怖い。そして不快な何かからそっと目を背けることはとても残酷なんだ。近代人、日本人、ここまで経済や開発、そして環境改変を推進してきた我々は決して潔白にはなれない。そして潔白なフリをしているほど信用できない。

だが、すべての人に対して、残酷な何かから目を背けるなとは言えない。快のために頑張ることは等しく尊いことだとも思う。これを書いてる自分も、この瞬間において快を求めていることは否定し難い。誰しも守るべきもののために、または自分の生活やアイデンティティを求めて頑張っている。または生き残るためのニッチな環境を必死に作り上げている。やりたくないこともやっているだろうし、誰しも自分の周りのことで精一杯なのが、社会であり人間であり、生き物なのだと思う。だから、その余力で祈ることや念じることもあながち間違いではない。

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15歳から建築を目指して、2024年で10年になる。この期間ずっと建築だけに向き合っていたわけではないが、大学に通ったり、長く休学したり、違う分野で知識や経験を蓄えたり、アトリエや設計事務所、工事現場でバイトをしたり、素敵な出会いも、作った作品や友人とのプロジェクトの数々。その原動力は、快楽、そして自分がいても良い環境や居場所を自分で作るためだった。社会を憂いながら、生活を人質に取られている人々を嘲笑い、中指を立てた。イキっていても本心では怖がっている臆病な姿だった。大きすぎる建築の概念や歴史に縋り、それに追いつこうともがいてる自分の姿を欲していた。これはある種の祈りの形だった。15歳からの自分は、この盲目的で知的な祈りを抱えて、生きる意味とするしかなかったのかもしれない。

祈りや念じることをやめないといけない。祈っても変わらないものは変わらない。祈りで解決できている間は良い世だった。しかし、祈りや念は平和を維持するためのものであり、平和が犯されていく中で決して通じるものではない。祈りや念は大仏を建立しても、教会に訪れても、選挙に行っても、デモをしても、愛を語ってそして歌っても…歴史を見ても、祈りは何かを救ってきたように見えて、実はそうではないのかもしれない。だから、祈るだけなのは嫌なのだ。祈りを超越して、現実や今を少しづつでも変えないといけない。

もっとスリリングな現実に生きることを仲間と楽しみたい。善悪や倫理観に対して自分をアップデートし続けて、社会に対して怒るべきものには怒りたい。建築がどう、デザインがどうとかは実はどうでも良いことだ。自分がたまたま得意で時間をかけてきただけである。または特権的に受け取ったモノである。実力は運のうちだ。その先にある信念を元にしてモノを作りたいし、これからの社会や世界に必要だと信じるものを生み出したい。免罪符を捨てて、腐った現実や社会、痛みや悲しみの多い世の中をちゃんと変えたい。

大切な友人を助けたいし、世界の裏側の人ともっと笑い合いたい。誰かの大事な信念を叶える手助けもしたい。恩返しもしたいし、大事な人を守りたい。10年かけて磨かせてもらったその知性と武器を信念のために使いたいと思う。きっと仕掛けることのできるタイミングなんだと思う。

大人になんてなりたくない
お金があっても生きられない
腹一杯の夢を見たい
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お金いっぱいでも稼いでたい
稼いだら人に使いたいな

The Debut/SKY-HI

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27歳までの3年間の目標は以下の通り

1.国境なき医師団のような、ボーダーレスなデザイナー/建築家の集団を作り、大資本のためではなく市民やNGOのための建築技術・ファイナンスの支援を行える集団を世界で作り出す。
2.近代の建築美学や精神性、建築家のあり方を書き換えるための重要な視点をまとめて文章にする。そして出版する。
3.どのような形であれ、日本の建築都市業界を根本的に変革する旗手になる。世田谷区や地元地域の未来のあり方についてアクションし続ける。
4.守りたいものを守り、大事にしたいものをちゃんと大事にする。受けた恩を返しきる。友人や共感した人の挑戦は何でも助ける。

2024年は、10年前の自分にとってヒーローになれるような1年にしたい。少年の夢は、見るためにあるけれども、大人の夢は実現するためにある。大人として、これ以上ないくらいに、楽しみながらも今やるべきことに全てをぶっこみたい。みなさま、今年もどうぞよろしくお願いします。

森原

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