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コンプレックスという宝物

 誰の中にも「私のここは知られたくない。だから、人からここが見えない距離を保っておきたい。」と思う何かがあると思います。その何かは人によって実に様々で、人の数だけあることでしょう。
 性格的な何かだったり、生い立ちだったり、肉体的な特徴だったり、「過去の過ち」だと自分が思っていることであったり。
 ある程度の距離感のある関係性の中ではそれをうまく隠し通すことができますよね。そんな関係性の中では、それを隠しているという自覚すら持たなくて済むかもしれません。
 それはある意味で葛藤が無くて楽なのかもしれない。けれど心の中にはいつも他人との隙間があり、孤独がほんとうに埋まることは無いのではないかと思います。

 けれどそうした生き方が孤独である一番の理由は、他者とつながることができないこと以上に、自分自身とつながることができないからだと思うのです。隠しておきたい何かは、自分が自分に対して拒絶して切り離している何かですから。
 私自身もまた、自分の中の統合できていない部分に向き合っているところです。きっとこのプロセスは死ぬまで続くのでしょうけれど。

 この統合のプロセスの中で、あらためて気づいたことがありました。
 統合とは受け入れて行くことですが、それはコンプレックスと自己を一体化することではない、ということです。
 逆に、コンプレックスを自己と一体化している錯覚から目覚めることこそが統合なのですよね。でもこれはもちろん、コンプレックスを拒絶したり切り離したりすることとも違います。
 コンプレックスと自己の一体化の錯覚からふっと目覚めた瞬間に、コンプレックスだと思っている特徴は単なる現れでしかないことが分かります。でもその単なる現れに良し悪しをつけて、自己と一体化してしまうことが苦しみにつながるのですね。
 自己・・・本当の自分は、現れては消える特徴をもつ何かを完全に越えています。自己は、現れては消える特徴に何の影響も受けません。そのことを認めた時に、コンプレックスと呼んでいる何かが現れていることを、ただ赦すことができるのだと思います。
 そう考えると、コンプレックスを克服するという言い方があるけれど、きっとそれは違いますね。コンプレックスを「赦す」には、本当の自分がどんな存在なのかを思い出して認めることが必要なんですね。

 今朝、目が覚めた時に「コンプレックスを聖霊に使ってもらう」というインスピレーションがありました。そのインスピレーションを受け取った時に、コンプレックスには他者とつながるための大きな鍵が隠されていることを感じました。自分と他者を隔てている何かは、逆にそれを明け渡すことで、つながるための強力なツールにもなり得るのです。
 「ザ・マネーゲームから脱出する法」(ロバート・シャインフェルド著)にも、もっとも大きな宝箱の鍵は、もっとも大きな怖れの下(もと)に隠されていると書かれています。
 コンプレックスとは、本当の自分を思い出していくための重要な道しるべでもあるんですね。そう思うとこれも大切な宝物。忌み嫌わずに愛おしみたいたいと思います。

 それからオマケ。
 先週はまた水俣で車中泊しました。お風呂に入りに立ち寄った湯の児温泉でこんなすごい廃旅館を発見!廃墟好きなので一気にテンション上がりました(笑)。
 まるで千と千尋の神隠しの旅館みたいですね。左右に隣接している鉄筋の建物と三棟でひとつの旅館だったそうです。


 この廃旅館は負のインパクト強めですが(笑)、湯の児温泉はロケーション最高の観光スポットです。きれいな砂浜の海水浴場があり、公衆浴場はとても清潔で気持ちよく、何より噴き出している温泉の湯量がすごいです。なのに夏場以外は人が少ない超穴場。

この日の車中ご飯はナスをたくさん入れたパスタでした。家では全部は食べられない量なのに、車中泊先だと何を食べても美味しくて、ペロッと食べられるのが不思議です。


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