見出し画像

生きているだけで、あなたは尊い

31歳のときに、北海道から実家に戻った。

いちばんの理由は、手湿疹がひどくなって家事がままならなくなり、ひとり暮らしができなくなったこと。あのころ、私の指関節はすべてぱっくりと開き、毎日どこかが流血していた。

今思えば地獄だった。私は本来、ささくれみたいな小さな不快感ですら一日モヤついてしまうような感覚を持っているからだ。でも、当時はそんなことより仕事ができなくなる!ちゃんと動かない私の身体が憎い!そんなことばかり考えてた。あの頃、私の感覚は限界まで狂っていた。

実家に戻ってしばらくは北海道から持ち帰ったデザインの仕事をしていて、そのあと、たまたま見つけたインタビュアー募集の仕事に申し込んだ。農家さんや家具職人さん相手だったけど、インタビュアーとしてのキャリアがある。それだけのことで、仕事はあっさりと決まった。

一緒に仕事をしていた人たちも気持ちのいい人たちばかりで、取材はうまく行かないこともあったけど、それでも概ね楽しかった。

ところが半年くらいが経ったある日、「これ以上続けるのは無理だ」と全身で感じた。ちょっと休ませてほしいと話すと、会社の人たちは私を思いやってくれ、何かこちらがひどいことをしてないだろうかと心配をしてくれたりもした。けれど、そんな親切どうでもよかった。

アルバイト程度でしかないこの仕事すら続けることのできない自分を、自分自身でできる限り罰した。それと同時に、身体が動かないのはどうしようもないと観念もしていた。それから3ヶ月、私は自分でつくった針の筵にチクチクと責められながらも、何も制約のない完全無職の時間を過ごすことになった。

家でやっていたことはというと、ひたすら眠るか、ひなたぼっこをするか。本当にそんなもんだった。心配する、あるいは私の行動を「いよいよやばいんじゃないか」的に危惧する家族の声を、どうにかするような元気はなかった。体内にちょっと残ってた、かろうじて肉体的に病気ではないと言えるほどのエネルギーを、あたためながら牛乳でのばしてなんとかカサ増しする。私が過ごしていたのはそんな色合いの時間だった。

季節は初夏だった。学生時代、定期テストなんて吹っ飛ばしてピクニックに出かけたいと何度も思った季節だった。こんなに気持ちいい季節に机にかじりついているなんて、私から見れば正気の沙汰ではなかった。けれど、本当に吹っ飛ばす勇気はなかった季節でもあった。そもそもキャパシティの小さい私のエネルギーは、学校で1日を過ごすだけでカラカラになった。ピクニックに行きたかった。草原でボーっとしたかった。でも、そんな余力なかった。

家の窓辺でボーっとし始めたころ、私は長年、ほんとうにピクニックをしたかったんだな。それは単なる妄想でなく、身体の底から湧き上がる渇望だったのだ、ということに気が付いた。ピクニックを渇望するなんてなかなかに変わっているなと思ったけど、それはそれで私らしい。だから仕方がない。

家族はちょいちょい小言を言ったけど、力づくで私をどこかへ(病院などの施設が想像される)引っ張って行くことはなかった。文句を言いながらも、私の「ピクニック」を容認し、食事を提供し、経済的に支えてくれた。この状況にとことん流され、特に改善しようとしない両親の気質のおかげで、私はこどもの頃から大いに苦しんだわけだけど、このときは大いに救われた。流してくれてよかった。

私の「ピクニック」は3ヶ月で終わった。すっかり満足をして、仕事の担当者に連絡をして、インタビューの仕事を再開した。そこにひとつも無理はなかった。私は望んで、再び仕事を始めたのだ。

振り返ると、あの「ピクニック」は自分自身でしっかりと、「生きているだけで、このいのちは尊い」ということを落とし込むために必要な時間だったのだと思う。それまで私は、こんなこともできないなんて存在している意味などないと、何度も自分で自分を殺していた。そう思ってしまう自分が自分の中に棲んでいることは、あらゆるしんどさの根源であったと今では思う。

そして、自分は生きているだけでOKだと思えないと、弱っている人に優しくすることはできないのだ知った。自分を罰しているのと同じくらい、まわりのことも罰してしまう。自己責任論をぶち上げてしまう。そしてその締め付けか、結果的に自分をギリギリとしめつける。それまでの私の生き方は、いい人の顔をした悪魔みたいだった。

「ピクニック」で一度ぶっ壊した私の生き方は、イチから自分用にカスタマイズしたもの作り上げていった。社会にあふれる様々な「べき」を見てしまうと、今までの不毛なやり方に戻ってしまいそうだったから、欺瞞に陥っていないかにはとりわけ敏感になった。

まず、今日も生きている。えらい。から始まる。だから、無理をし過ぎない。だから、相手に支配されない。だから、共に働く人を尊重できる。だから、大切に扱ってもらえる。だから、世の中のために自分の力を発揮したいと思う。そうやってひとつひとつ積み上げて行った。

それができるようになったのは、あの「ピクニック」の時間があったからなのだ。あれがなかったら結局、はりぼてのやさしさだけを抱いて、同じことを何度も繰り返していたと思う。たった3ヶ月、されど3ヶ月だ。

そして、人生のターニングポイントを容認してくれた家族に、やっぱり私は愛されていたのだと思う。それは、彼らが意図したことではないのかもしれない。だとしても、ありがたかったと思う。最近やっと、そう素直に思えるようになってきた。

「ピクニック」が必要な人は、無理をしない方がいい。無理をしても、どこかが壊れる。壊れないように大切に、大切に自分のいのちを扱った方がいい。生きているだけで、あなたは尊い。その尊さは、大切に扱われる理由になる。

私のいのちを大切に扱ってもらったあの時間があったからこそ、私は世界中のいのちを大切に扱いたいと思うようになった。それが私が「いのち図書館」を始めた理由なんだ。そんなことに気が付いた。

誰にも強制されていない。無理もしていない。ただシンプルに、そこに能力を役立てたい。今は強く、そう思っている。


よろしければサポートをお願いします。いただいたサポートは、創作活動継続のために使わせていただきます。