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存在していなくてはならない

息子という不思議


2005年7月、息子が誕生した。立ち会い出産だった。生まれてきたばかりの息子は、出口の関係で頭が伸びきっていて、とても不思議な存在に見えた。そして不思議な感覚は、その後も消えなかった。誕生した喜びというよりは、不思議な感覚という表現になってしまう。もちろん喜びはある。毎日笑顔が絶えない時間が訪れた。

だが、<不思議なことに>不思議な感覚がずっと続いた。違和感とか、ズレ、とか、そういうものでもなく。。。ハッピーストレンジ、アナザービューティフルとかそんな感じなんだろうか。英語を使いたいわけではないが、日本語のビシッとくるような表現が合わない。ホンワリしていて心地良いが今まで経験したことのないものだ。

新たな存在を生み出した。
すごいことだ。

このコラムは、ある荒廃した家庭に挑んだ、1人の青年の記録である。新宿に生まれ育った無垢な小学生時代に、アルコール依存症とバイセクシャルという特異な両親に囲まれ、酩酊した母親と強制的に初体験をさせられ、その後30年近くに渡り自身もアルコール依存症に苦しみ、その中で設けた我が子との絆を通じ、寛解するまでと、その原動力となった信頼と愛を余すところなく完全実話で書き下ろしたものである。


人体実験の成れの果て

息子が生まれてからも鬱の症状が日に日に酷くなる。
鬱世界は自分自身が作り出したテーマパークだ。テーマは、四面楚歌、打つ手なし、お先真っ暗、絶望、、、、マイナスワードを全てひっくるめても足りないぐらいの暗黒パーク。そして体験した人にしかわからない独特の時間経過がある。

時間と向き合う。

という考えを持ったのもこの時だ。そしてひたすら自分の中にあるドロドロと向き合った。向き合わざるを得なかった。息をするために。

かみさんが産休をとって赤ちゃんの世話をしている傍で、オレは自分の存在を確かめていた。なんで存在するのか?息子の誕生、そして存在する肉体。
この時は、まだ様々な方面の勉強不足で答えが出ない。それが辛かった。辛い時間は、乗り越えたらご褒美がないとやってられない。そのご褒美が見当たらない鬱という時間は、やはりしんどかった。

何がどうなっているのか全くわからず、ただただ長くつらい時間を過ごしていた。処方された薬は、悪い部分も良い部分も機能停止させる。それも辛かった。色々な薬を試し、試され、リスパダールという薬にたどり着いたが、この薬は、オレの欲求を奪い去った。ダメージの大きい副作用だ。わかりやすく言うと全く性欲がなくなった。生殖本能が無くなり、無理矢理試してみると、いく感覚はあっても、射精しない。オレの人生の半分を失ったようなもんだ。

ググれば体の中で何が起きているのかわかっただろう。だが、それを調べる気も起きないぐらい、性欲だけでなく、全般的に生きる気力を失っていた。ピュアな鬱の状態は、自分への攻撃で死にたいぐらい追い込み、薬で抑えた鬱状態は、無気力と低空飛行の日々を強要される。<死にたいぐらい>というのがポイントだ。死にたいだけで、死ねない。オレの場合、鬱MAXの時は、<〜〜したい>という感情がなくなる。つまり死にたいという欲もなくなっていた。

だが、存在しなくてはならなかった。息子のために、自分のために、そしてかみさんのために。かみさんは信じないだろうが、この時期、自分より、息子より、誰よりかみさんのために生きようと必死だった。おそらくバンクーバーで狂いながら街を徘徊している最中にスイッチが変わり、自分以外の人のために人生を過ごすことに少し切り替わったはずだ。あまり覚えていないが、帰国した後、自分の荷物を確認したら、息子のベビー服や、かみさんの洋服など自分以外のものをひたすら買っていたことがわかった。おそらく念願の家族を持つという喜びに満ち溢れていたに違いない。ようやく掴んだ幸せだったから、そこにしがみつきたかったが、生い立ちから始まる自分が歩んできた環境は、簡単には幸せを与えてくれなかった。


とにかく、辛いが生きなければならない。

家族のために生きないといけない。

だが、この時は、息子というより、かみさんのためにと強く願った。

初めて、生きていて存在意義を感じたから。

しっかりしたかみさんだが、オレが必要だと思った。

人のために死ねると初めて思ったのもこの時期だ。

しかし精一杯だった。

存在する。

ただそれだけだった。

弱い命が尽きることなく、燃え続けている。

真っ暗な心の中で、自分が作った闇の中で、ひたすら存在を確認していた。


苦しんでいる人に向けて多くのメッセージを届けたい。とりあえず、これから人前で話す活動をしていきます。今後の活動を見守ってください(^^)