見出し画像

福島原発について今までほとんど触れてこなかった阪神大震災被災者が、Fukushima 50を見た感想

4月1日に、1日割引がある日だったので、Fukushima 50を見てきました。この映画は2011年3月11日の東北大地震が起きた時に、福島第一原発で起きていたことを再現した映画です。

結論から言うと、僕はもう冒頭10分くらいの、洪水で非常電源が落ちてしまったあたりから、どうしても涙が止まらなくなりました。普段から映画を見に行くと、感動的なシーンの台詞や音楽によって、涙を流してしまうことはよくあるのですが、今回はなんだかそれだけではない理由で涙が流れているような感覚です。
その理由について、映画を見ている間中ずっと、自分の中でも不思議だと思いながら、でも、断続的に僕の中の何かが刺激され、涙が溢れてくるのを止められないという状況でした。

その理由を振り返る前に、映画としてはどうだったのか?ということを先に書いておこうと思います。映画としては、2時間くらいの時間の中で、3月11日の14時46分から、職員たちが最後の砦であった2番高炉の圧力低下を経て、家族の元へ戻ることができる瞬間、そしてそこから4年後(だったはず)に実家へ戻るというシーンまでを詰め込んだ作品となっています。
登場している、役者さんたちは、有名どころばかりで、主演は渡辺謙、佐藤浩市、吉岡秀隆といった面々から、脇役たちも演技の光るメンバーぞろいだったかと思います(あまり詳しくありません、すみません)。各シーンでの演技は、個人的にはとても素晴らしかったと思います。
また、構成としても飽きさせるところはなく、淡々と場面が進んでいき、あっという間に2時間が経っていた、という感想です。

ただ、僕自身、これまで本事件についての情報のインプットをあえて避けてきていたこともあり、どれだけ事実に基づいているのか、という点については評価しかねます。しかし、映画を観ながら、涙の理由について考えていたのは、少なくとも個人としては、これは事実とどれだけ違うか、どれだけ正しいかは問題ではない。ということでした。

さて、僕はどうして涙が止まらなかったのか。

それは、人間が極限状態に置かれた状態で、一刻を争う中で、仕事として、また誰かのための判断を迫られているという姿に、阪神・淡路大震災の時の、まだ10歳だった自分が右も左も分からず感じたあの絶望感が、大人になった今、あの状況に置かれ、しかも、自分の判断の一つが、何万人、何百万人という人の運命を左右するかもしれないというストレス下に置かれた時に、いったいどうなってしまうんだろう、ということだったのかと思います。

僕はあのようなことが起こった時の、人間の判断や行動に「正解」なんてものは存在しないと思っています。かつ、もっと言えばそもそも普段の生活の中でさえ、「正解」なんてものは存在しない。目の前では「よりよい」結果が得られたとしても、それが数年後、数十年後にどの様な影響を及ぼすかなんて、誰にもわからない。だからこそ、一つ一つの選択・行動を何よりも自分自身が信じてあげ、実行に移し、その責任からは逃げずに、次の行動を選択していくということしか、僕たち人間には許されていないんだと思っています。

この映画は、極限状態だからこそ、選択をし、行動に移さなければならない状況に追い込まれ、でも逃げることも許されない人間たちの「生々しい」状況が描かれていたように、僕は思います。
そして、それが僕自身の、震災体験というものを通過して、より「生々しさ」が生の追体験として僕の中に流れ込んできたのかもしれません。

映画を観終わって、僕は、僕自身が、もう20年以上も前になる震災の時の記憶が、これほどまでに、僕の中で息づいているのだということにびっくりしました。もちろん、当時の情景は今でも鮮明に思い出せるし、それこそコマ送りの映画のように再生することができます。それでも、こういった別の事柄との対比によって、僕の何かをこれほど揺さぶってくるほどだとは思っていませんでした。

さて、そろそろ総括として僕がこういった、自然災害の被害者について思うことを述べたいと思います。

上でも述べたように、特に極限状態においては、一人ひとりの行動の「正否」は問われるべきではないのではないかと思っています。誰しもがその1分1秒を生き残るために、まずは自分が、そして家族が、そして自分の行動によって影響を受ける人たちが生き残るために、その時に与えられた条件下で使えるものを総動員して行動をします。もちろん、その時のだれかの行動は、別のだれかの行動や生命を阻害してしまうかもしれません。でも、だからと言って、その行動は責められるべきでしょうか?

僕は、そうは思えません。

みんなが必死に、その場を乗り切る。そして、その後、当時を振り返って、お互い生きててよかったね。そう言いあうしかないのだと思っています。

変に心配しあうことも必要ないのだと思います。これは、実際に東北の震災の後1年ほどたち、陸前高田のさらに北、大船渡に1泊で訪れた時に、現地の人と話していたときに、共通認識として共感しあえた感覚でもあります。

もちろん、何かが起きたときの体験を、実体験を持った人たちから聞き、備えを行うことは大事です。

そして、何かが起きたときには、そうやって事前の行動にもしっかりと責任を取るべく、結局のところ、我々は自分たちを高めていくしかないのではないでしょうか?

この映画を観て、僕自身、改めて今の自分に慢心することなく、日々を大切に生きていこうと思いました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?