見出し画像

3.11に寄せて

※本投稿は、FacebookのNoteに2019年3月11日に投稿した記事の転載です

色々な方が3.11を思い出して投稿をしているので、恥ずかしながら僕も考えを残しておこうと思います。

3.11自体は、僕個人としてはなんの感慨もなく、ただただ帰宅難民となりながら、当時の同僚&先輩と「楽しんだ」イベントだった。

楽しんだ、という表現を使うのは不謹慎だと言われるかもしれないが、当時、東京近郊に住んでいた多くの人たちは、ある意味命の危険を真に感じることもなく、言われるがままにヘルメットをかぶり、ニュースで遠く離れた福島や宮城の惨状を「少し近い危機」として受け取り、自分たちは降ってくるものもない中、ヘルメットをかぶり、時に笑顔も交えながら家路についた「イベント」だったのではないだろうか?

もちろん、身の危険を感じたりした人がいたことは確かだと思うし、その「恐怖」の度合いを論じるつもりもない。
ただ、阪神淡路大震災の被災経験、そして、当時住んでいたマンションの直下が断層だったと後で判明し、1年間もの間、鉄筋コンクリート築7年程度のマンションに住めないほどの被害を受けた身としては、東京で受けた3.11自体は「ただの子供だまし」だったと言わせていただきたい。

阪神淡路大震災の時の1分1秒は今でも鮮明に思い出すことができるし、その後1か月以上、水とガスがない生活の中、朝起きてまずやることと言えば、山に水を汲みに行くこと、という日々の経験は一生の経験となっている。僕の今の死生観・人生観も大きくは当時の被災経験が礎になっていると自覚しているほどである。
※とはいえ、僕の置かれていた状況は相当ましだったものであり、もっとひどい経験をされた方も本当に多くいらっしゃるので、強く被害者意識を感じるものでもありません

そんな中、先日、新潟へ行ったとき、長岡からずっと出たことがないんです、という方と会話する機会があり、とても感動する一言をいただいた。
彼女が言うには、阪神淡路大震災が大きなきっかけとなって、地震対策が全国的に進み、長岡もその例にもれなかったため、新潟の地震の時は、本当に被害を抑えることができたと実感している。神戸の人たちのおかげなんだと、強く感謝していると言っていただいた。

この様なことを言っていただいたのは初めてのことだったので、とても新鮮だったし、こうやって何かが繋がっていくことの安心感はとても大きなことだなと、改めて感じるいい機会となった。
個人的には、被災した個人の気持ちは推しはかろうとしても到底できることではないし、「支援」が本当にそれぞれ一人ひとりに対して、意味・意義のあるものかどうかなんて、もっとわからないと思っている。

なぜなら、被災した人達は、それぞれが目の前の出来事を乗り越えていかなければならないし、それはもしかしたら、日々の会社での辛いコトを乗り越えることよりも、ずっと簡単なことかもしれない。そういう意味では、東京で仕事を続けていくことの方が、人生においてはもっと「辛いコト」なのかもしれないとさえ考える。

それを、「地震」「被災」という分かりやすいイベントがあったからと言って、ことさらに心配したり「支援」したり、というアクションを取るのではなく、いつも周りに人にやさしくあり、助け合って生きていこうよ、と思うのである。

3.11で福島に想いを馳せるのも悪くはないですが、まずは身の回りに困ってる人、苦しんでいる人はいませんか?
その人にちょっと勇気を出して、救いの手を差し伸べることが、いつかまわりまわって、3.11の被災者、そして、阪神淡路大震災の被災者、新潟の震災の被災者へと繋がっていくやさしさの輪の様になる、そんな社会にみんなでしていきませんか?

2019年3月11日 1995年の震災時は10歳の子供だった後藤 正樹より

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?