見出し画像

遠隔型マルチチャンネル・ヴィデオ・インスタレーションという試み

去年の10月になりますが静岡県で開催された、かけがわ茶エンナーレという芸術祭に出展させて頂きました。

その際に発表したのが《syncasync RMCVI 16102021》という作品で、遠隔型(リモート)マルチチャンネル・ヴィデオ・インスタレーション(以下RMCVI)と形式を銘打って行いました。

マルチチャンネル・ヴィデオ・インスタレーションとは、複数の映像ディスプレイを配置したインスタレーション作品のことです。

まず僕が現地で制作したインスタレーション作品と共に、パフォーマンスをライブ配信しました。

「RMCVI」とはライブ配信と事前アップロードした複数動画を、鑑賞者が自宅などで可能な限りのデバイスを用いて同時再生し、鑑賞者自らがその場へMCVIを立ち上げるという形式です。

以下のWebサイトより、現在も体験可能です。
https://www.masaki-tani.com/


もともとはインスタレーションやパフォーマンスも、来場者が観覧できる予定でしたが、コロナの影響を鑑みて主催者側から全てオンライン上で公開するという変更があっため、急遽案を練り直しました。

結果的には、以前からやってみたかったアイディアを実現するとても良い機会になり、むしろ初期案よりもかなり面白いものになったと自負しています。

この作品の中で僕は現場の立体造形や全体構成、そしてパフォーマンス時の映像投影を行いました。

このパフォーマンスも「間合い」という一貫した現在の制作テーマ上にあり、俳優の関根淳子さんと撮影の泉山郎土さんとも、何度かのリハーサルというかアイディア出しのようなことはしたもののほとんどアドリブで合わせました。

次にどんな行動を取るのか、どんな映像効果を出すのか、どの角度や構図から撮影するのかなど、互いの表現を読み合って間合いを図るかのように行動しています。

さて本作品で試みていることは、大きく分けて3つほどあります。

①インスタレーションにおける参加性と空間性のオンライン化
②所有/収蔵することへの問いかけ
③遍在の位相的関係性



①「インスタレーションにおける参加性と空間性のオンライン化」

文字通りそれらをオンラインにすることでも可能なインスタレーションを制作することを示しています。

インスタレーション作品であると定義づけられる際、美術史的にそこには参加性と空間性への言及が見られます。(Claire Bishop『Installation Art』)

多くの人がイメージするインスタレーションとは、様々なオブジェクトやイメージなどが四方八方に設置され(時には音楽や匂いなども)、見る者はその空間の中へ入り込んでいく形式のものでしょう。

そのため作品は「鑑賞する」というよりも「体験する」ものとして捉えられます。
つまり鑑賞者は体験者として、自らの身体をもって参加することにより作品が成立するわけです。

その他にも様々な形式としてのインスタレーションがありますが、それについては2015年の修士論文にまとめていますのでご興味ある方はWebサイトよりご覧ください。(まだまだ不完全な分類ですが)

いずれにしても参加性はインスタレーションによって重要な要素なわけですが、本作においては「鑑賞者/体験者自らが好き好きにディスプレイを配置し、映像インスタレーションをその場に構築する」という行為が参加性を示しています。

ただそれは用意された実空間内へ入り込むのではなく、クラウドから映像データをダウンロードし、再生されたディスプレイを自分の周囲へ配置するという、能動的な設置から始まるのです。

他方、空間性とはこれも文字通り作品内部もしくは周囲などの空間のことを指します。

インスタレーションの起源としてはいくつかの説がありますが、一つはクロード・モネの「睡蓮の間」とするものです。

オランジュリー美術館の「睡蓮の間」では、有名な池に浮かぶ睡蓮の絵が、弧を描くように設置され、鑑賞者をぐるりと囲むような展示がなされています。
ちなみにこの設置はモネ自身の指示によるものですが、彼の死後制作されたものです。

絵画をどのように設置し、どのような展示室の中でどのように光を当てるかなど細かな設計がされており、それは絵画を展示した空間自体を一つの作品として提示するものでした。

他にもアラン・カプローによるハプニングとするものや、もっとプリミティブな時代まで遡ることで起源を見出すものなど、様々な説はありますがいずれも、作品における空間性をどう捉えるかに言及しています。

本作では映像データがどのオフラインのどの場所からダウンロードされようとも、それは実質的に限定はされないため無限の空間性を示唆することになります。

しかしどちらかというと、このことが言いたいのではなくて、参加性で前述した「クラウドから映像データをダウンロードし、再生されたディスプレイを自分の周囲へ配置する」ということによる、構造的に逆転した、鑑賞者/体験者を中心とした空間性への広がりの部分を示しています。

つまり「作られた空間へ入り込む」インスタレーションではなく、「周囲へ空間を構築する」インスタレーションであるということです。



②所有/収蔵することへの問いかけ

一般的に美術作品は有形なものとして、コレクターや美術館などにオークションなどで購入され、所有/収蔵されます。

昨今ではNFTという形で無形なものを所有することもできるようにはなりました。

では作品の所有/収蔵について現時点で最もとがった考えで言及されたスタイルは何かというと、指示書を所有/収蔵するという考え方です。

これは仮設的な構造をもつ作品であったり、無形であるパフォーマンスアートをどのように所有/収蔵するかという、問いに応える形で一つのスタイルとなってきました。

比較的最近で言えば、マウリツィオ・カテランの《Comedian》は本物のバナナを銀のテープで紙にはりつけただけの作品なのですが、これを指示書と証明書が合わされた形で、3つ目のエディションを美術館が1600万円で購入しました。

《Comedian》

これに対し、本作のRMCVIでは設置のための指示書はなく、どのような形態に設置されようとも同じ作品である、という作家の宣言において作品たらしめることを強調しています。

どういうことかというと、本作では映像データをNFTとして10のエディションで販売するのですが、それらは作家が指示した形態にアウトプットされる必要はなく、作家が選択し区切りをつけたエディションそのものが作品購入の本質として所有/収蔵されるわけです。

なぜかというと映像データはYouTubeからダウンロードできるため、いつでもどこでも誰でも何度でもヴィデオ・インスタレーション自体は構築可能なので、映像データは作品購入の本質ではありません。
また指示書も無いため、展示空間という実体も違います。

作品として指定するエディションそのものが、購入対象としての作品たらしめる本質となるのです。

この「指定する」ことは、本作が「美術作品」として成立するための根拠でもありますが、詳しくは後述します。



③遍在の位相的関係性


さてこの項が最も難解なものかもしれませんが、本作の最も中心となるコンセプトにもなるものです。

まず「遍在」とは「隅々まで行き渡りどこにでもある」というような意味です。
これはネット社会においてユビキタスという言葉として、一時注目を集めたものでもあります。

「位相」とはトポロジーとも言い、大雑把に説明すると「集合の元が互いにどの程度空間的に関連があるのか」を示すことです。

誤解を承知の上でもっと砕いて表現すると「違う形のものを、別のルールで見れば同じ形と言える」ことを示すことです。

つまり遍在の位相的関係性とは「別のルールで見ればあらゆるものが同じものとして捉えられるような関係性」とでもなるでしょうか。

ここでいうあらゆるものとは、本作における鑑賞者/体験者の一人一人が設置したマルチチャンネル・ヴィデオ・インスタレーションのことを示します。
またライブパフォーマンスを行い、立体を設置したステージ上の実空間も含みます。

位相的(別のルール)に俯瞰してそれらを見てみると、いくつかの要素が形を変えて成立しています。

それは「立体造形」、「役者」、「映像投影」、「視座」などです。

それぞれ配信を行なった実空間としてのステージ上の要素は、クラウド上にあげられデータが鑑賞者/体験者へと配信されました。

「視座」のみ分かりづらいので解説すると、ステージ上では配信を行なったカメラの視点であり、配信先の映像データの視点でもあり、これらを指します。

これら4つの要素は、ステージ上であろうとデータをダウンロードした先の鑑賞者/体験者個々の空間であろうと、互いに等しくあるものであり、実際的なアウトプットの形態が違ったとしても、それらは同相(同じ性質のもの)であるといえるのです。

つまりステージ上の空間も、鑑賞者/体験者がそれぞれ設置した空間も、全て作品としては同じものと捉えることができるのです。

現在はダウンロードしたものを映像としてアウトプットしなければならないため少し分かりづらいかもしれませんが、3Dプリンターが今よりももっと解像度高く、より多くの素材を扱えるようになれば(人体をも作れるほどに)ステージ上にあったものは全て鑑賞者/体験者の目の前に作り出されることができるでしょう。

僕たちはその過渡期に生きているのだと考えています。そのため映像であっても実体であっても、遍在することについては同じものとして捉えています。

ここで何が言いたいかというと、つまり本作は決してステージ上の実空間のみが、配信映像のみが、作品なのだということではなく、鑑賞者/体験者が設置した空間一つ一つも含めて、それら全ての総体としてのものが作品であるということを示したいのです。

ここにおいて作品とは、アウトプットの形態がそれぞれ異なっていることもあり、実態として1つの有形なものでもない、ということが明らかになるのです。

ではどのようにしてこれを「美術作品」として成立させるのかという問題が発生します。
※前述までの作品とは、有形な実態を必要としないものも含めるため美術作品と分けて考えています。

僕は自らの肩書きを美術作家としています。
これは何か具体的なものを形作ることを目指しているからです。

ここで前項に記述した「指定する」という行為が深く関わってきます。

上記のようにあらゆるものが同じものとして捉えうるということは、主客の発生しない、まるでビッグバン以前の無のような、仏教用語で言われる空のような、そういったものとして考えられます。

つまり客体(他者)が存在しなければ自己(自我)は捉えられないということです。

ここにある有限な枠組みを介すことで、具体性が生まれ自己と客体が生まれるのであり、自己とはここでいう美術作品として成立することができるということです。

この有限な枠組みこそがエディションなのです。
10のエディションを設けることで、無限大に広がっている全体性を湛えた作品を、具体的で有限なものとしての美術作品へ抽出したのです。

一体何を本作を通して示しているのかというと、一貫して支持体論という僕の制作理論に紐付ける形で作品を制作しています。

要するに、何かの存在は他の存在を形作るための支持体(材料のようなものであり、同期させる媒体)としても存在する、という趣旨を体現させる形に落とし込んでいるのです。

作品を、僕たちが知覚も認識もできないような主客のない大いなる渦(を模した文脈)の中へ放り投げると共に、そこから10の有限な具体性をもって個としての美術作品を成す、という一連の流れを持って支持体論を体現しているのです。


さて最後は特にまどろっこしく複雑に書いてしまいましたが、作品を語ろうとすると改めて自分が何をやろうとしていたのかを新たな視点から捉えられたり、様々なことを紐付けて理解したりすることができるため、腑に落ちる感覚というものが出てくるのです。

これは作品の言葉ではないものを、いかにして言葉という媒体を通して他者へ伝え、更に他者がそれぞれの身体をもってそれに似た言葉ではないものを感じ得るのかに、とても重要なことだと考えています。

理解はできずとも、この腑に落ちるという感覚を持って僕の作品が共感されるのを願って、これからも制作と言葉を表したいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?