間と神: 東西の視点における存在の探究
こんにちは。美術作家の谷正輝です。
前回の記事よりかなり日が空いてしまったので、現状報告から致します。
去年の5月に地元の兵庫県神戸市にて個展を開催して以降、様々な所で発表させて頂く機会に恵まれました。
去年10月に出展したパリでの展示をきっかけに現地のギャラリーにお声がけ頂き、今年は海外での展示が複数入っているため、またそこで得た知識や情報なども今後まとめられればと思っています。
さて今年はそういった活動に際しても重要となるコンセプトの見直しとして、かねてより構築している制作理論「支持体論」の集約を、今年の目標に据えています。
翻訳家の方とも表現を相談させて頂きながら進めていますが、その中で明確になっていった言葉を、断片的かもしれませんが綴っていこうと思います。
『間・間合い』
間とは、何かと何かの物理的な距離や空虚な空間、連続している事と事の間の時間的な余白(リズムやテンポ)、心と心のコミュニケーションの調節など精神的な繋がりなど、様々な表現で使用されます。
私の「間(ま)」とはそれらを含みながら、総体的な意味として「対象と自分を同期させるもの」であり「対象への知覚認識に影響を与えるもの」として働く何かを指します。
例えば「見える」という知覚認識は、対象との間を行き来する光を介して、「私の前にりんごがある」と分かるように。
「間合い」とは、主体性を持った存在(私)が、
その「間(ま)」を認識しながらコントロールしようとする、具体的で身体的な行動によって感じている事を意味します。
上記の「同期させるものの存在」を考えた哲学が、私の「支持体論」です。
支持体とは絵における紙やパネルなど、材料になるようなものです。それと同時に、アートの本質(目に見えないもの)を見る人に同期させるもの(理解させるもの)としても存在すると言えます。
人もものも世界の現象も魂も、マクロな視点からは「あらゆるものが支持体として仮の状態で存在している」と同時に、ミクロな視点では「真な状態として完璧に存在している」ということが「支持体論」です。
支持体論と信仰の視点から見た本質の役割
これは同時にもう一つのことが言えて、あるものは「間(ま)」に包まれており、他の何ものにも決して侵犯されることのない、絶対領域をもった存在でもあることを示します。
あらゆるものは他の存在とゆるやかに同期しつつも、その本質は何ものにも触れられることはなく、真なる自由で孤立した状態にあるということです。
ただし「真なる自由で孤立した状態」は、支持体論の説明のミクロな視点による「真な状態として完璧に存在している」はイコールではありません。
前者は西洋的に言い換えれば「本質」という存在性で、後者は正確には「…完璧に存在している、と観測できる」状態性のことです。
「本質」としての「真なる自由で孤立した状態」と、支持体論の「あらゆるものが仮設である」が矛盾している響きがありますが、それは「本質」というものを捉える際の優位性に関わっていると思います。
つまりここで「本質」(オリジナリティ、リアリティなど?)はある、と考えるか否かの問題が浮上しているわけです。
「本質」はある、という観点は西洋的な客観的視点と私は捉えています。つまりある事実を捉えようとするために、対象にはもともと「本質」という存在がそこにあり、それを主体者(私)はあらゆる観測的事実を元に、その状態性を論理的に解釈していくということです。
これはおそらく信仰が起因していて、西洋(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)における神とは唯一絶対の神が、そこに「ある」という状態から始まるからだと考えています。
ここに「神」の優位性がはっきりと表され、神は唯一絶対なわけです。
ゆえに「本質」≒「神」は、まずそこにすでに「ある」わけです。
これに対して東洋、特に日本において神は「やってくる」ものなのです。
松岡正剛は「客神」として古来の神々を説明し、折口信夫は「まれびと」としてこれを表現しました。
確かに「神」としての優位性は保ちつつも、あくまで何か縁起によって成立する諸要素の一部として見なされていると考えられます。
だから古事記で描かれる神々は「ある」ではなく「成る」が使われているわけです。
つまり日本において「本質」≒「神」も、絶対的な優位性ではなく、まるでふわふわふと漂う中でそこに居合わせたことが起因して、物事が立ち現れる、並置化された一要素として捉えられると考えています。
私がここで言いたいことは「本質」でさえ、支持体としての諸要件(材料)として扱われるものであるということです。
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