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まいにちを生きるとは、なんと綱渡りなことであるか、と思わない日はないのであるが、さてその綱とやらを見定めようと足元を凝視しても、何にもない。あるのは、凍てはじめたアスファルトとワークマンプラスで買った1900円のキッチュな靴だけだ。まいにちを生きるとは、綱渡りでもなんでもなくて、ありもしない綱を、細ーく細ーく幻視することなのかもしれない。

*

むすめと一緒に暮らしていると、わたくしには見えない綱を、かの女が注意深くわたっている姿を見たりする。妻がおっかなびっくり、しかめ顔で綱渡りをしているなあ、と、台所の向こうから分かる日もある。とすれば、かの女たちも、わたくしが neurotic な面持ちで綱渡りごっこをしているなあ、と笑いをこらえている日もあるのだろう。

そうしてだんだんと――それはもちろん、しばしば深刻な罵り合いになったり気まずい沈黙になったりもしながら――わたくしたちは、おたがいの綱について言及する術を獲得してきた。おのおのの理想、おのおのの夢、おのおのの義務感、そのようなものを抱えて生きるしかない、現代のなかのわたくしたちは、たとえそれが笑止な幻視に過ぎないと知悉していようと、weird な綱のうえをひょろひょろと歩んでしまう。きわめて厄介で気づまりでしんどくて、と感じることもあるに違いない他人との「一つ屋根」での生活を、それでも――わたくしを含めた――とても多くの人々が選ぶわけのひとつには、わたくしたちが無意識裡であれ、微笑でこう言ってくれる誰かにそばにいてほしい、ということはあるのかもしれない。
「それがあなたの綱なんだね」と。

同じ綱を渡る必要などない。立派でなくとも、いくつもの、色とりどりの綱があった方が、わたくしたちはいくらか楽しくいまを過ごせるに違いないのだ。ワークマンプラスのように。

*

このようなかんじの穏やかさをつかむのに、数十年と数十年分の苦労とハチャメチャが必要だったとすれば、それらをずーっとともに生きたこの綱だって、あのころよりはいくぶん、ささくれとかも減っているのではないかしら。

まあ、見えないんだけど。

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