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note の悲しい音

*(note はいいなあ)*

 
 実に、いろんな人が居る。同じ人など、どこにも居やしない。「何から何まで違う」と、一旦は言い切っても構わない。

 あたりまえのようなこの感慨から、どの方角に一歩を進めるか、あるいは進めないか。その選択にさえ、それぞれの人のそれぞれの価値観はにじみ出る。

 note は、かたや商業ベースのプラットフォームでありながら、大多数のユーザーはそんな事には頓着なく、各々の価値観に座を据えている(ように思われる)。いろんな人が各々の一歩を踏み出すことに対して極めて寛容な SNS であると、この4年間を通して感じている。

 特に、私のように、特定のジャンルに所属せず、ただ書きたい時に書きたいように書く習性をもつ者には、 Facebook のような虚栄と怨望から身を遠ざけながら、Twitter の持つ「熟考と葛藤の拒絶」を厭いながら、Instagram の意味がよく分からないまま、それでも人の傍に居たい者には、ここにただ居られることが、ひとまず心地よい。

*(ことば教から少し降りた)*

 

 呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。

 たくさんのことばを読んできた。ことばの先の先には、それのために今を生き、それのために静かに死んでゆける何かが待っていることを想っていた。
 はじめはコーラのように、その刺激と甘味がただ爽快だった。テキーラのように、激しく酩酊したこともある。ビールのように、虚しさを覆うためだけに溺れたこともある。リカールのように、臭いに辟易して遠ざけたこともある。

 そして、叩き尽くした心の底に残ったことばは、私はいつだって、他人を想おうとしながら、結局はこの私の心の底にしか関心が無かったという、氷塊のような悲しさを突きつける。

 この欠落を、ある時は努力と倫理で補おうとした。愛について真剣に考えようとした。天職、召命、宿命、観、道、どれも私の硬直した歪な頭を矯めてはくれなかった。
 まるで、心臓が痛いのに目薬ばかり注している。そのことも分かってはいた。注し方が悪いに違いない、そうとしか反省の仕様がなかったのだ。セクトに没入するとは、そういうことなのだろう。

 かつての私のように、酒を嗜み、実は酒に飲み込まれた人は、飲酒の正当性と利点を挙げてその再検討を終えることを、あらかじめ決めている。同じように、ことばへの不偏不党 fair and impartial な向き合い方が足りない、という結論を先取した取り組みは、ことばと私の壊れた距離を、いっそう覆い隠した。

 ことばそのものを信仰することは、あることばに信頼することからは、いちばん遠い。それは、書き手の名前を信用することではない。口コミを当てにすることでもない。ともすれば、あることばへの感銘をさえ、信じてはならない。
 ただ、置かれた一面の森を、しまいまで徒手で歩くことでしかない。
 私には、そうしか見えなかった。

 社会性が警笛を鳴らした。精神の均衡が揺れ、きしみ始めた。身体が反旗を翻した。それでもなお、ことばを信じる私を疑ったわけではなかった。
 ただ、もう私は、これ以上一歩もこの薮を歩くことができないと分かった。

*(人の「音」)*

 呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。

 他人の不安、葛藤、恐怖、絶望、混乱、そんなものばかりが悲しさではなかろう。
 他人の声高な虚勢、過剰な虚仮威し、「マウンティング」、「リア充アピール」、そこにこそ感じられる悲しさは、当人や当該記事を、ではなく、その心の底を叩いて見るまで響きはしまい。

 誰も彼も、心の底の叩き合いをしたところで仕方がない。叩かれたくないこともある。叩かれたくない人もいる。(私はまだ、こういう形で世界に怯えている。)

 だけど、精魂込めて綴った何かを、見返り無しに誰かに読んでほしい、届けたいという思いの底の底からは、きっと悲しい響きが、あるいは激しく、あるいは微かに、ある時はほんのノイズとして、聞こえてくる気がする。
 まだ私には聞こえない音、聞き取れない音がたくさんある。聞いたことのない楽器、世の騒音にかき消される囁き、羽音、衣擦れ、雪溶け、日の出。

 私も、物を書くのが人並みに好きだから、破綻の少ない、筋道立った、できるならば洞察と示唆に富んだ物を書きたい。だが、以前にも書いたように、私の身体も、そして頭もうまく働いてくれないから、しばらくはひどく、そのことを気に病んだ。

 そのおかげで、漱石のこのことばを、適切な視線で正しく思い起こすことができた。
 それまで早合点していたように、心の底を叩いて見ると、悲しい「心が出てくる」のではない。当世大流行りの、深層心理を根こそぎ掘り起こすような野蛮な愚行ではない。
 
 書かれたことばを、一度限りの、決して触れることのできない「音」のように、そして、その向こうにいる人を思い、私の指が押す『スキ』の音色を届けるように。

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