教師の資質

ぼくを訪れた若者の、ぼくはその人の、その人を困らせている「結び目」を、さまざまな手を使い、見出そうとする。

しばらく話すうちに、ひょっとしたら、と「結び目」の可能性をいくつか思い浮かべる。

さらに続く対話で、ぼくはそれが、本当にその人の「結び目」なのかを確かめるために、実験する。
それがもしそうであれば、ぼくはだいたいの「結び目」をほどく、少なくとも弛めることには自信があるから、ほぼ終わりだ。

あとは、双方の協力と根気とがあればよい。

ぼくにとって、ある教科を教えるとは、ほぼ上のような仕事に尽きる。

ほぼ尽きているから、その後の長々とした、根気と体力の作業(=授業/講義)とは、その若者たちとの契約を誠実に履行しているのに過ぎない。

とは言え、この坦々とした契約履行のなかで、ぼくはさらなる課題を発見することも非常に多い。坦々のなかに、Eureka! はふと顔を見せる。

ぼくはいくぶん興奮し、若者たちに、率直にそのことを伝える。
ぼくは今日から、この実験をはじめる、と。

そのときの彼らの顔は、おおむね輝くものである。

そしてぼくは、そのような機会のたびに思い出す。

多くの若者は、正しい答えに飢えているのではない。おとなが問いに向き合う正しい姿勢、その model に飢えているのではなかろうか、ということを。

語りのなかで、ぼくがぼく自身の「結び目」を発見し、それに取り組むときに、若者たちもまた、あらためて自らの「結び目」に直面することができる。それは彼ら自身の力によって解かれるべきである、と気づくことができる。

教えるものは、教わるものをひとりの人格として、ひとつの知性として尊重する必要がある。
また、教えるもの自身もまた、日々教わる身であることを、堂々と生きる謙虚さを保持する必要がある。

それ以外は、どれも要らない。
かえって妨げになるものばかり、かもしれない。

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