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考えないよう考え詰めてしまう日に

手の巧緻性が落ち、だいたいは眼球に入る目薬が、外れてしまう日がある。

それは今日。

豊満な涙袋に黄色い泪を滴らせながら、
「目薬もちゃんと注せんとか……」

「目薬一滴、高々20銭、どんまい!」
を、マイエモーションが右往左往する。

このような想念のちらつき、不安定さ、揺れ動きやすさ、は、元々の私のパーソナリティの中にもなくはなかったけれど、それが、ある一連の作業や思念を寸断するようなことは滅多になかった。むしろ、ミッションへの集中力は人一倍強かったはずだが、MG 発症(+ ステロイド服薬)後は、その点については、別人格になった。

ずっと YouTube のショート広告を流されているようだ。

『広告をスキップ』のボタンが、ねえな。

*

体調と心境、ふたりの機嫌を取りながら文章を残す。書いている間は、書く疲れにさえかまけていればよい。直視するために書くんじゃない、逃げ切るために書く。

良質の睡眠と変わらない。
つまりは、巻き込み型の寝言だ。

内容については、まだ、メタに分析することができない。あまりに懸命過ぎる。余裕の欠片もない。だから、「コンテンツ」と呼ばれるものを持つ余地がない。人様になにがしか物を伝えるなど、余裕と俯瞰がなければ、できたもんじゃない。つくづく思う。

ひょっとしたら、明日から書けなかったら、の焦りと恐怖が決して薄れゆかぬ、サインカーブの体調。いつも、後半は、何度もスマホを落としながら、1文ごとに指と目を休めながら、何とか投稿できる体裁に落とし込む。

もちろん、誰から頼まれたわけでも、誰のために書くわけでもないのだが。

文体については、やはりセンテンスが長くなった。意識して切らなければ、《牛の涎のように》だらだらと conjunction する。クリアカットな意味よりも、緩慢でぼやけた思考の流れを写す方が、この思念のちらつきと途切れの私に似合うし(あくまで後付けの結果論)、文を切ることで、気の張りが切れて、もはや書き続けられなくなるのを厭う感情もある。

* * *

ほらほら、いつもいつもこうやって、中身でも書こうかな、という薄い青写真を、不意の独白が押しのける。そして、体力と無けなしの集中はみるみる減衰し、マクラで、おや、お後がよろしいようで。(今日は負けないぞー)

↓*↓打

ぼくはちょうど2ヶ月前、
全身型重症筋無力症(急性期)
と、考えたこともないことばを浴びせられ、ぱんつひとつ持たずに、アウェイ入院した。

ひとより少し多い検査の後、代表的なふたつの抗体反応
抗アセチルコリン受容体抗体(AChR抗体)

筋特異的チロシンキナーゼ受容体抗体(MuSK抗体)
のどちらも陰性(-)反応のマイノリティ、人呼んで
ダブルセロネガティブMG←かっこよくなぃ?
だと判明した。

ぶっちゃけ、まだ治療の定石が確立していない症例なので、実際、予想ほど服薬の効果が出なかった/出ていない。
次の治療(免疫グロブリン静注: IVIG)も、製剤の品不足により(!)、実施の目処は立っていない。

何にも、けりはついていない。
『滅多に治らない』疾患だから、寝てりゃいつかけりがつく、わけでもなさそうだ。
けりのつかないことに、強い懇ろなことばを乗せることはできない。昨日の天気予報が、今日の天気予報ではないように。

ただ、 ひと月半の入院と、半月の独り暮らしを経て、ようやく、こういうことを思えるようにもなった。

この2ヶ月で、同じ病気を発症した人もいる
この2ヶ月で、似た絶望を噛み殺した人もいる

それで、その気になれば書くのは苦手でもなく、かなり細かいメモもつけていることではあるし、いつか、事実だけを書き連ねた『共病記』を書けば、広い日本のどこかで、誰か、突然の脱力と異変にただただ驚き取り乱し相談する相手もいない誰かが、ハッシュタグひとつを頼みに、たとえ頼りない轍でも、その轍の存在が、不安を和らげる一助となるのかもしれない。

だけど、何度試してみても、まだ書けない。「今日は調子がよい」と「今日は調子が悪い」の脈絡がないから、ただの姑息な天気予報になってしまう。まだ「今日は調子が悪い」が多すぎて、こんなブログじゃ、会ったことのない同志を力付けることもできない。

しかし、だ。そんなことを言って体裁を繕おうとしていたら、いつまで経っても書く機を逸してしまう。

……みたいな下書きが、数えれば34本。つくづく、「拙速」に踏み切れないビビりなのだ。

いつかその記事に取り組める、そのくらいの condition に持っていきたい、その希望が condition そのものの向上に寄与しないとも限らない。

下書きは、もうしばらく熟成させるのです。

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