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抱負って、なんだっけ?

 いずれは得体も知れぬアイドル・シンカー、書き初めが UFO の目撃写真でも構わないが、あれは書き初めというよりは「正月特別号(袋とじ)」に近いので、改めて、ことばを用いて世界と自分への向き合い方を残しておく。

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 私が書く文章は、いろんな物に似ている。似てはいるが、だいぶ違うなあともやもやする。書けば書くほど、読めば読むほど、もやもやは膨らみ為す術を失う。今度こそ落とし前を着けようと、またぞろ書いてしまう。言うまでもなく、この書くことと俗世の充実は、おかしいほど無関係である。知り合いは誰一人、私が文章を書いているなど知りはしない。

 使っている文字の種類や、文法規則を守ろうとする仕方や、一応は筋書きに則ってひとつの記事を収めようとする形式や、そういうものは自己流ながらも「書き物」の枠内に留まろうとしている。主語―述語、修飾―被修飾、文の硬度、語彙の整合、涙ぐましいほどの奴隷根性でせめて Syntax Error だけは防ぎ止める。ただ、そのもやもやの源、何が「書き物」の枠を突き破ろうとしているのかが本人(入れ物の方)に分からず、隙を見ては手を替え品を替え、ことばを置いてみる。が、てんでかすりもしない。

 私は文筆を生業としようと考えたことはない。世には「売れる文章」「Accept される文章」があり、商売とはその流儀を完コピした上で新機軸のスパイスを加えることだから、真のエポックメイカーでなくてもよいならば、そのような文章を書くのは技術的には難しくなかろうと思っている。ならやれよ、と言われればやらない。仕事以外で、「足りているもの」「まかなえているもの」にはからっきし関心が向かない。

 その代わり、同類センサーは極めて鋭敏だから、「書き物」の枠からはみ出、枠を突き破り、枠そのものを粉々にしたそうだという文章(と書き手)に、抗えない魅惑を覚える。その引っかかりは、内容のどぎつさとはほぼ無関係で(むしろ負の連関があるようにも感じる)、人間性とか文体とかともあまり関連がない。『狂気』ということばの正しい用法用量は分からないが、それがもっとも、的に近い気がする。ただ、生きて動いている人間にもそのような感覚としての『狂気』を感じ取るものの、その基準はまったく曖昧で、ピンと来るとしか表現できないのだから、いわんやデジタルの字面においてをや。

 何がことばへと向かわせるのか、ばかりを私は考えている。私の書く文章には、否定形がやけに多い。気づいていないのではない。To Do ではなく、Not To Do のリスティングで背骨が出来ているのは、思考というひとつの自己を否定する形式が、得体の知れぬ他者を offend しない最良の文体だと思い込んでいるからだ。煽るだのマウントを取るだのといった陰湿な遊戯のサークルからは、極力遠ざかっていたい。ならば、何へと近づきたいのか? ひとつの仮説は、『狂気』がそれでも生きてゆく姿

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 この程度の率直さでさえ、そしてここまで気を許せるフォロワーの前でさえ、私はいつも怯えている。意図せぬ不快を撒き散らしてはいないだろうか。私を大きく見せてはいないだろうか。誰かに対して不意のマウンティングを仕掛けてはいないだろうか。

 そして、これでも私は、妥協や諦念を削ぎ落とし、せめて思うことを思うかたちで思うように書けるようになりたいと願いながらことばを組んでいる。本当に怖いのだ。根本療治ではなくとも、因循な対症療法に過ぎなくとも、私は受け入れられない、私でない「受け入れられるもの」にならねばならないという根深い強迫観念と向き合っている。今回の病は、その大きなスプリング・ボードになってくれたので、素直に感謝している。もう分かったからいい加減治れよ、と毎日思っているけど。

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 ひたすら蓋をして黙殺してきた『狂気』に、しかるべき居場所をしつらえたい。

 今年、私が書くという行いは、私の一端が誰かに分かられる、その過程で生じ得る面倒を、少しずつで構わない、恐れないよう、そして再び無菌真空の殻に籠らぬよう、辛抱強く構築してゆく training になるような気がする。

 Note という芳醇大部の雑誌の隅っこに、こんな得体の知れないコラムが載っていても構わないよな、と自分を鼓舞しながら、枠をもらったのをいい事に、今年もいろいろ書きます。

 みなさまにとって、そして誰より私にとって、良い一年となりますように。

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