見出し画像

LUUPで山手通りの自転車道を走って警察に捕まって罰金を支払って気づいた、法源としての慣習法の意義

LUUPとは

LUUPは、国内主要都市で「シェアリング電動キックボード・電動自転車」を展開している事業者であり、サービスの名称でもあります。

今日現在、少なくともLUUPの電動キックボードについてはナンバープレートが付与されています。2023年6月までは、法律上「原動機付き自転車(原付)」と同じ扱いとされていましたが、改正道路交通法の施行に伴い、新たに「特定小型原付」という区分が新設され(原動機付自転車の中に更に特別な括りができた)、いわゆる「電動キックボード」はこの新しい区分において道交法上のでの取り扱い及び利用者の法令遵守が必要となっております。

余談:実証実験期間におけるLUUPの位置づけ
2023年6月以前は問答無用で「原付きと同じ」だったわけではなく、実は指定された地方自治体における実証実験事業の一環として利用していたことになります。これは既存の「小型特殊自動車」という農業用トラクターやフォークリフト 等と同様の区分においてLUUPの電動キックボードを取り扱い、かつ実証実験事業としてのクライテリア(免許携帯はしなくても良いが利用者登録時には免許登録が必要、最高時速15km 等々)を満たした上で運営・利用可能であったという事です。つまり、特定の地方自治体限定のサービスだったわけです。改正道路交通法上の新区分の創設に伴い、実証実験は終了し、地域限定性も解除された事で、今後一気に様々な地域でのサービス展開が加速すると思っています。

https://www.keishicho.metro.tokyo.lg.jp/kotsu/jikoboshi/electric_mobility/electric_kickboard.html

では、もうフリーダムに電動キックボードに乗って良いのかと言えばそうではなく、LUUPを含めたシェアリング電動キックボードは引き続き改正道交法上の規制が掛かっております。具体的には

  • 16歳以上しか利用できない

  • 最高速度制限が20km以上

  • 原則、歩道・自転車道は通行不可(※ただし、システマチックに最高速度を6km以下に抑える機構を具備し、それを起動した場合については可能)

などです。詳細は警視庁のホームページを御覧ください。

余談:なぜ歩道は時速6kmが上限なのか
これは、車体の型式認定に掛る「原動機を用いる歩行補助車等」に該当する規制に依拠しています。つまり、電動車椅子等と同じ型式認定上の規制が適用されているという事だと想像できます。
当該認定についての詳細は、出典の「公益財団法人 日本交通管理技術協会」のホームページをご参照ください。

https://www.tmt.or.jp/examination/index2.html

余談:電動アシスト自転車はどういう扱いなのか?
LUUPでは「電動アシスト自転車」を利用する事も可能です。よって「LUUP=電動キックボード」ではありません。電動アシスト自転車をレンタルした場合は歩道・自転車道を走ることが可能です。
なお、「電動アシスト自転車」は通称であり、自転車と同等区分である「軽車両」に該当し、法律上は「駆動補助機付自転車」という扱いになります。この「駆動補助機付自転車」について、型式認定上の規制が適用されます。一般的な電動ママチャリ(牽引車両が無い)であるところの「電動アシスト自転車」については、速度上限が時速24kmまでと定められています。最近話題の「違法電動自転車」なるものは、この速度上限が守られていません。
ちなみに「軽車両」には人力車や馬も該当します。詳細は警視庁ホームページをご参照ください。

https://www.keishicho.metro.tokyo.lg.jp/kotsu/jikoboshi/bicycle/menu/rule.html

山手通りで目白警察署員に呼び止められた

山手通りはかなり広い歩道と自転車道(※歩道の一部)がありまして、自転車で走ったり、あるいはランニングしたりするにはかなり適した幹線道路だと思っています。

出典:http://perfect-comes-from-perfect.blogspot.com/2014/04/blog-post_10.html

その自転車道を、電動キックボードで、少なくとも時速6kmよりも速い速度で走っていたところ目白警察署の警察官に呼び止められ、罰金6000円を払うことになりました。なお、罰金は期日までに郵便局や窓口のある銀行で支払いが可能です。

余談:せっかくなので捕まった時に警察官に色々聞いてみた
ぼく「これはどういう法律を犯した事になりますか?」
警察官「道交法」
ぼく「運転免許は減点されるの?」
警察官「No. LUUPは現在は免許登録不要になっており、また小型特殊自動車区分の電動キックボード(※要はLUUPの電動キックボード)も免許不要で乗れるので、運転免許証に対する減点は行われない。つまり交通違反・反則行為には該当しない。ただし道交法違反」
ぼく「要は、自転車に乗ってる時に酒気帯びしてたり、イヤホン付けてたりすると捕まって罰金払わされるのと同じ?」
警察官「自転車は軽車両区分に該当するので完全に同じではないが近い考え方」
ぼく「改正道路交通法では、時速6km以下で歩道を走るのはいいんだよね?」
警察官「Yes. ただしモード変更機構が搭載されている車体であり、かつその起動をした状態でなければ違法」
ぼく「じゃあ、モード変更機構が無い車体に乗っていて、でもアクセルを調整してメーター上では時速6km以下で走っていても、それは違法?」
警察官「Yes. 違法」

何故LUUPで自転車道を走ってしまったのか

これはもう、ひとえに「法令遵守意識の欠落」として反省するしかない話であるので、「何故もくそも無いだろう」というのが大前提ではあるのですが、あえて当時の自分の認識に照らして考えてみたいと思います。

当時の私の「電動キックボードに対する認識」は以下のようなものでした。

  • 「電動キックボード」は法定上限速度が時速20km、対して「電動アシスト自転車」は時速24kmで、「電動キックボード」の方が遅いじゃないか

  • 「電動キックボード」よりも車体が幅広で、しかも買物袋や子供を載せている「電動アシスト自転車」の方が不安定で危険じゃないか

  • だから「電動アシスト自転車」が良くて、「電動キックボード」が歩道・自転車道を走ってはいけないなんて、おかしいじゃないか

  • よって、そもそも改正道路交通法の方がおかしいんだ、だから山手通りの自転車道は幅広で走っても安全だろ、問題ないだろ

概ねこんなところでしょうか。どうですか?もしかしたら「一定の論理的整合性はあるのでは?」と思いますか?

ちなみに、私はこんな記事を書くくらいには「電動キックボード」を取り巻く諸々の法律や道交法上の取り扱い等に詳しいつもりですので、つまり違法性を認識した上で、しかし思想信条上受け入れがたいとして「電動キックボード」で山手通りの自転車道を走っていたわけです。勘違いや法律を知らずに「やっちゃった」わけではないのです。つまり、(あくまで自分の中だけにおいては)論理的整合性を持って「やってもいいだろう」と考えていたのです。

さて、そんな「俺ルールにおいては論理的だろ」と考えていた当時の自分を論破してみたいと思います。

「電動キックボード」は世の中に浸透したのか?

これは明確に「No, so far. (今のところは違う)」でしょう。まだまだ電動キックボードに乗った事の無い人が大半であり、またその他の車両(自動車・自転車 等)、そして歩行者を含めた交通社会全般の中に「電動キックボード」は馴染んだとは言い難いです。

なんとなく「電動キックボードより電動アシスト自転車の方が危ないだろ、だから電動キックボードも歩道・自転車を走ってもいいだろ」には、一定の論理的整合性が感じられなくもないですが、しかし「電動キックボード」と「電動アシスト自転車」の決定的な違いは、「交通社会への浸透度合い」にあると思われます。

ここがこの後の議論の肝です。

制定法とは

「電動キックボード」に課されている様々な規制、あるいは道交法上の取り扱い。こうしたものは、立法府である国会による議論・採決を経て、法律(道路交通法)にて明文化されたものであります。つまり「制定法」です。簡単に言えば「法律としてきちんと明文化されたルール」なわけです。

これに対して「不文法」という「明文化されていないけど守るべきルール」という「法」もあります。最も有名な「不文法」はイギリスにおける憲法(※単立した制定法が無い)でしょうか。この辺は中学校の「公民」なんかの授業で習った記憶の方も多いでしょう。「え!?イギリスってきちんと文書として制定された憲法無いの!?」っていう感じで驚いた記憶がありませんか?

さて、ではそもそも「法」とはなんでしょうか?「法」は何のためにあるのでしょうか?

ひとつの考え方として、それは、「裁判官の判断根拠」です。つまり「法」に照らして裁判官は判断を行います。この「法」とは何らかのソース、源を要します。この「ソース」を法源(ほうげん)と呼びます。

「法源」は複数あるとされています。国際法上の考え方においては、以下の2つを採用しているそうです。

  • 国際条約

  • 慣習法

我が国における法源(※特に形式的法源)については、現在は以下の通りだそうです。

  • 憲法

  • 法律

  • 命令(政令・省令・規則)

  • 条例

  • 判例

  • 慣習法

  • 条理

余談:概念法学と自由法学における法源
概念法学」というのは、とても簡単に言えば「法源を裁判官の拘束条件とし、判決の根拠から個人の判断や意見・恣意性を排除するべきである」という考え方です。こうした考えは制定法を必要とします。つまり「明文化されたルールがあるんだから、これに基づいて判断せなあかんやろ」という事です。この様な主義をそのまま「制定法主義」と呼び、我が国日本を始め、ドイツやフランスは制定法主義を採用する国家です。また、「概念法学」及び「制定法主義」の大前提には「法に欠陥は無い」という考えがあります。欠陥があったら、その欠陥に基づいた裁判結果になってしまいますから、そもそも制定法に欠陥を認めてはいけないわけです。
(あまり例えとして正しいのか自信が無いのですが、要は「法源はイデアである」というスタンスであろうと、私は個人的に解釈しています)

もう一つ重要なのは「複数の法源の優劣」です。つまり、様々な情報ソースとしての法源があり、それらはどういう優先順位関係であるのか(あるべきなのか)という問題です。例えば「法源①(慣習法)的にはこうだけど、法源②(倫理観・条理)においてはこうだ」みたいなことがあった場合、①と②のどちらを優先するのかという問題です。今例に挙げてみた「慣習法」や「倫理観・条理」以外にも、他の法源例としては「国際条約」もありますね。

本記事執筆時点で未だ解決されていない、韓国におけるいわゆる「徴用工問題」なんかは、法源としての「国際条約」に該当すると言って良い「日韓請求権協定」と同じく法源としての「条理」が導く結論にギャップがあるのだと思います。だから一概に「こうだ」と中々定まらない、そういう風に私個人は理解しています。
この様な「法源」に関する議論や問題・理論的解決を目的とする歴史的な営み、あるいは理論体系を「法源論」と言ったりします。

さて、一方で「法律(制定法)は当然レファレンスとして参照するべきではあるが、制定法には欠陥がつきまとう可能性があるので、裁判官の自由な判断、法解釈、法の発見・探求を良しとしよう」という法学的立場を「自由法学」と呼称するそうです。この場合の「法源」は「裁判官を拘束する条件」ではなく、寧ろ「裁判官がその判断・判決をする上で採用する判断基準・理由付け」という性質を帯びます。つまり「この法源を採用する事で、判決の妥当性を確保する」という感じでしょうか。「自由法学」を採用する国家として有名なのはイギリスやアメリカです。「自由法学」においては法源としての「判例」が、「概念法学」に比べてより大きなウェイトを占めると言っても良いかもしれません。つまり「人間としての裁判官の判断」に重きが置かれるということです。

米国連邦最高裁判所における「人工妊娠中絶」に対する合憲・違憲判断は、歴史的に「ロー対ウェイド事件判決」という「判例」に依拠してきたわけですが、それがトランプ元大統領による連邦最高裁判事の入れ替えに起因して覆された事が、アメリカ国内でこれほど大きな問題になっている背景の一つには、単に「女性の権利問題」云々のみならず、「おいおい、『判例』に重きが置かれるべきやろ」というイデオロギーとしての「自由法学」にも反するという事が位置づけられるのではないか、とこれも私の個人的な考えですが、そんな事も思ったりしています。
(個人的な意見ですが、「概念法学・制定法主義」を取る日本で生まれ育った我々には、いまいちピンと来ない話なのかもと思ったりもします)

法源論についての覚書(加藤一郎):https://www.jstage.jst.go.jp/article/jalp1953/1964/0/1964_0_85/_pdf

「慣習法」をどう捉えたらいいのか

ここで、国際法上にも我が国の法源においても見当たる「慣習法」というのが気になります。「慣習法」は文字通り「慣習的にこれで良いとされてきた行いやルールを、法の根拠として採用したもの」と言い換えることができるでしょう。

例えば、「人を殺してはいけません」という法は、あらゆる時代のあらゆる文化において慣習的に認められ、国家・法体系の成立以前から、村落やコミュニティにおける遵守と、それを犯した場合の罰とがセットで駆動してきたと言えるでしょう。

余談:「殺人は駄目」の慣習的ではない論理的説明
子供が親にする質問で、しかし親からしても答えるのが難しいいくつかの質問の中に「なんで人を殺してはいけないの?(生存権の侵害)」があるかもしれません。あるいは「なんで人のものを盗ったらいけないの?(財産権の侵害)」もあるでしょう。
「ダメなものはダメ」も慣習法的解釈(昔から駄目だったから)として、ある種の確からしい(帰納的)回答だとも思いますが、それをあえて「論理的・演繹的」に説明してみせたのが、ホッブスから始まり、ロックやルソーらによって練り上げられいていく「自然権」あるいは「社会契約説」の考え方になると、私は考えています。

「法源」としての「慣習法」は、明文化されたルールであるところの「制定法」と対を成すものとして捉えられています。上述の国際法上認められる「法源」の「国際条約」が「制定法」、そしてもうひとつの重要な「法源」である「慣習法」でしたね。

では「制定法」と「慣習法」のどちらがより重きが置かれるべきでしょうか?

それは採用する主義に依存しますが、お察しの通り我が国日本においては「制定法」を優先します。日本は「制定法主義」を採用しています。

ただし、「慣習法」を全く蔑ろにしているわけではありません。寧ろ、法律として明文化されていない、「制定法」ではない「慣習法」にも一定の地位をしっかりと認めているのです。これは、「法の適用に関する通則法(第三条)」に記載の通り理解できるでしょう。

第三条 公の秩序又は善良の風俗に反しない慣習は、法令の規定により認められたもの又は法令に規定されていない事項に関するものに限り、法律と同一の効力を有する。

衆議院ホームページ:https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/housei/16420060621078.htm

簡単に言えば「制定法で定められている事はその通りに、でもそうじゃないものは慣習を『法律と同じ効力を持ったルール』として採用してもいいよ」ということですね。

ここまでの議論を何となく単純にビジュアライズしてみるとこんな感じでしょうか。

問題・事案が判断されるプロセス

こうしてみると、やはり「慣習法は制定法に劣る」イメージがあります。
しかし、そうではないと私は考えます。つまり、上のイメージに追記するとこういう事です。

慣習法が制定法にフィードバックされるプロセス

つまり、新しい「制定法」を成文させる(あるいは改正させる)為に「慣習法」が大きな役割を果たしているという事です。

そもそも「制定法(成文法)」の歴史は、共和政ローマの「十二表法」に遡るとされているのですが、そもそも「十二表法」とはもともと「慣習法」であった社会秩序を初めて明文化したものです。

つまり、「明文化された法律としての制定法(成文法)」のジェネレーターは「明文化されていないけど、これまで社会・コミュニティが慣例的に従い、それによって一定の社会秩序が成り立ってきたと考えている慣習法」であるということです。

で、LUUPは慣習化しているか?

なんだかLUUPの話からだいぶ離れた話をしていて、何の事だったか分からなくなっちゃったらすいません。

先程、”交通社会全般の中に「電動キックボード」はまだ馴染んだとは言い難い”という事を書きました。これは私個人としても極めて納得できる事実だと思っています。LUUPを取り巻く様々な物事が、日本社会において、まだまだ慣習の域には達していないという事なのです。

つまり、今の改正道路交通法における電動キックボードに対する規制に対して、「いやいや、電動アシスト自転車の方が危ないだろ、おかしいだろ」という当時の私の思想信条に対しては、「百歩譲って論理的に考えたらそうかもしれないが、しかし我が国の慣習法上、電動キックボードなんてものがまだ交通社会において十二分に受け入れられていない・馴染んでいない以上、電動アシスト自転車よりも慎重に取り扱うべく規制をすることは妥当だよ」として論破できる、と考えるのです。

加えて言うならば「慣習法上の判断がより積み重ならない限り、制定法上もLUUPの取り扱いが変わる事は無いんだから、電動キックボードがもっと世の中に馴染むまで待ちなさい。そうしたらあなたが考える『電動キックボードはそんなに危険じゃないだろ』が制定法としても認められるだろうから」とも。

さいごに

目白署の警察官に捕まったおかげで、「そもそもどうやって法律はできるんだろう」と考え、色々と調べたりするきっかけができました。
目白署の警察官、ありがとうございました(笑)。

皆さん、LUUPは道路交通法に従って楽しく便利に乗るようにしましょう。そうして少しずつ「電動キックボード」が日本社会に馴染んでくれば、LUUP愛好家にとってはきっと良い未来が待っています。

おわり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?