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魔解釈ビスマルクの格言

愚者は経験に学ぶ 賢者は歴史に学ぶ

プロイセンの宰相として辣腕をふるい、その後のドイツ帝国統一、第一次世界大戦開戦まで欧州に束の間の軍事的均衡と平和をもたらした「鉄血宰相」ことビスマルクの言葉とされています。

単純に、あるいは正当に解釈すれば概ね以下の通りでしょうか。

  • 愚か者は自分でやってみて「上手く行った(行かなかった)」を経験しないと学ばない

  • 一方で賢い者は、事を始める前に先人の残した知見や書物から学び、必ずしも自分でやってみる前から「上手く行きそう(行かなそう)」を想定している

己は愚者サイドか賢者サイドかを見定める重要性

常々、私は様々な場面でこれを考えています。様々な場面というのは、必ずしも全ての公私領域において一方的に愚者・賢者になるのではなく、ある分野においては愚者的にしか振る舞えない、自分の得意な分野では賢者的に振る舞える、といったことがあるのでは無いか、と考えています。

とはいえ、私は仕事全般の領域においてはまごうことなき愚者サイドだと思ってます。本は読む方ですが、最終的には自分でやってみて、触ってみないと何もわかった気になれない性分です。

そうした学びのアプローチには失敗の可能性を常に孕みますが、しかし上手く行った時の喜び、自分の仮説が当った時の達成感もまた大きいものです。

賢者は誰から学ぶのか

ここからは私の魔解釈です。

さて、賢者が学ぶべき歴史は誰が残してきたのでしょうか?
賢者が学ぶ為の教材・書物は誰が書いたのでしょうか?

それは、愚者達です。時々の愚者達は「こうやったら上手く行った」「こうやったら大失敗した」という情報を記述し残してきています。それを元に学べるから賢者は賢者たりうるわけです。

圧倒的愚者サイドの自覚がある私は、そういう愚者になりたいのです。愚者は愚者でも、将来の賢者達を生む為に何かを残す。それが生きるという事の目的でもあります。

私は社会人になってから経験してきた4社の中で、時々にそれなりに評価してもらえただろうという一定の自覚があるわけですが、そうした時の「とにかくアウトプットする姿勢が良い」という異口同音の評価内容はある種狙い通りでもあり、本望でもあるわけです。

これはもう新入社員の頃から常に、自分がやってみたこと、上手く行ったこと、駄目だった事を文章にして、あるいは資料にしたりして、誰に何も言われること無く、ある意味勝手に社内やチーム内に展開し続けてきたわけですが、それはもはや私の本能であり、愚者としてのミッションだと思ってやっています。

私が新卒の通信キャリアに内定し、内定者懇親会なるもので自己紹介ワークショップをやったのを記憶しているのですが、そこで私が発表したのはこんな内容でした。

死ぬ直前に、テレビなのかその時代の何らかのメディアなのかはわかりませんが、とにかくそうしたものを見ていて、「あぁ今の若い人たちってこんなこと考え出してやってるんだ。自分たちの世代じゃ考えもつかなかった」って驚いて死にたい

この内容には続きがあって、そうした「自分たちの世代じゃ考えもつかなかった」物事を成し遂げる未来の若者たちは、自分たちがこれから創る社会・システムの中で育っていくわけで、そうした『自分たちの世代じゃ考えもつかなかった』の土台創りに携われたらそれが本望」ということなんです。

これも上述の「将来の賢者達を生む為に何かを残す」と同じ考えだと思っていて、つまり私は社会人以前から一貫してこの価値観で生きてきましたし、多分これからもずっとそんな感じで生きていきます。

余談:本当の愚者とは
当格言のひとつの有名なEnhancementだと思っていますが、本当の意味での愚者というのは経験にすら学ばない者である、と言われますね。
何らかの手段で泥臭くても学び続けることが重要だという解釈かと思っています。

夏目漱石も著書「こころ」の中で書いています。
「精神的に向上心のない者はばかだ」

ただしこれは自分に向けた戒めの台詞ではなく、「主人公」が、自身が恋をしている「お嬢さん」を巡って恋敵になりかけている「K」を追い込み、陥れる意図で発した言葉です。
自分に対してならまだしも、他人に対してこんなことを言っては駄目ですね…

圧倒的愚者サイドとして

これからも未来の賢者達に少しでも有意義・有意味な情報を残していきたいと思っています。

という「noteをサボり続けている自分への戒め」でした。

おわり

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