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5リットルの牛乳

何が正しいか分からない時代
先が読めない時代

と言われてから随分経つ。

それでも本屋さんに行けば、「我こそは正解だ」というような体裁の本がいくつも見つかる。

まるで「これさえやっとけば」というような自信満々の本だ。もしこの本が人間だったら、あまり友達になれそうにない。
いつも自分のパターン当てはめて、人のことを洞察して、なんのバリエーションもなく「早くこれやりなよ。僕は先に始めてるけど」みたいな感じで、今までの会話はそっちのけで教えてくれるのだ。早くこの拷問のような時間から解放されたいと思うに違いない。

ただどの本も正しいことは書いてあるだろう。
でも何故か、ひとつの本に絶対的なものを求めようと思うと無性に不安になってくる。

これは何かに似てる。
ちょっと考えてみると、体に対する栄養に近いかもしれない。

いくら「牛乳が体にいい」と言っても、毎日牛乳を5リットル飲むだけで、ほかは何も摂らず「これで俺の食生活は完璧だ」と言っている友達がいたら、「おいおい、ほんまに大丈夫?」と心配になるだろう。

あるひとつの説や、主義や、あるいは有名人の言葉や考えをそっくりそのまま採用して、盲信している人に感じる危うさは、偏った食事を愛好している人のそれに近い。

本を消費する側、接種する側の僕達には、本のことを
「側面」
という前提に立つことが暗黙のルールなのだろう。いくら本が自信満々に見えてもそれは世の中はこうすれば良いと言っているのではなく、
「こういう側面もある」
という程度なのだ。

ではなんで自分がついつい本を全面的に信頼してしまいそうになるのかなぁと考えてみると、教科書が身近なひとつの本であり、教科書の読書体験の比率が多く、それに慣れてしまったからかもしれない。

それまで「教科書」という本を大量に配られて、そこには「正解しか書いてない」という前提に慣れてしまうと、先程の偏った食事のような盲信を生むのではないだろうか。

アイデアが生まれにくい教育、クリエイティブな思考が育たない教育と、日本の学校が批判されていることにも通ずるかもしれない。

ひとつよりどころを見つけると、
「これが正解」と短絡的に判断してしまうと、その本を越えることはできないし、今あるもの以上に仮説を立てたり、検証する思考は生まれないだろう。

自分も気をつけて、「本は側面だ」という前提と、「本の向こう側にもっとワクワクする何かがあるかも」「自分の知らない気持ちとかがあるかもしれない」ということを頭の片隅に置いておきたい。

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