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幸福学×経営学① ~ 経営者は何を契機に幸福経営へと舵を切ったのか ~

2年前に買って読んだこちらの本ですが、久しぶりに再読しまして、ブログにまとめてなかったので今回書いてみようと思います。

で、何を書き留めておこうかなと思ったのですが、まず第1章の「幸福学の基礎」についてはこれまで何度も読んで理解できているところなので、割愛します。

そこで今回気になったところというのは、幸福経営を実践しているホワイト企業対象受賞企業のお話。なかでも、

社長さんたちが「どのような経緯で幸福経営へ舵を切り、ホワイト企業へと転換したのか」

という部分です。

というのは、従業員の幸福を第一に考える「幸福経営」というものは、実情を知らない「数値第一主義」の人たちからすると「ゆるい経営」と勘違いされがちなのですが、実際はすごく大変なんですよね。「従業員とその家族の幸せ」と「経営成績としての数値」を両立させる経営なわけですから。一朝一夕には実現できません。

この本の第3章にも書いてありますが、従業員はないがしろにして「数値だけを追う」経営の方が、断然ラクなんです。

そんな大変な幸福経営にどのような流れで舵を切ったのか、頭の整理がてら、それぞれの経営者の事例をカンタンにまとめておきたいと思います。


1.西精工株式会社の西社長

西精工というのは、徳島県にあるネジ製造会社で、西さんが家業に呼び戻されたのは1998年、35歳のとき。そもそも父が創業者の三男ということもあり、会社を継ぐ予定はなかったのですが、後継予定の従兄の急逝により、急遽お鉢が回ってきたそうです。それまでは、東京の広告代理店でバリバリと活躍されていたとのこと。

そして東京から戻ってきた当初は、現在のホワイト企業とは程遠い状況。作業場は散らかってるし、商品のネジは床に転がってるし、、、といった感じで。全体として非常に暗い会社だったそうです。

そこから西さんは会社の雰囲気を変えようと挨拶活動なと徹底的に取り組むものの、変化はなく。。。いろいろやれども社内は冷ややかなな反応で、かなり精神的にも追い詰められたそうです。

そこで転機になったのが、2005年。参加したある経営塾で、「社員のことを謳っていない経営理念は理念ではない」という言葉を聞いて目が覚めたとのこと。それまでは、「会社のために社員はがんばるんだろう?」という姿勢で接していたとのこと。それで社員はついてくるわけがないということですね。

また、シレっと2005年と書いてますが、会社にジョインしてから実に7年。その間試行錯誤で苦しんでおられたということですね。

そして2006年に経営理念を策定し、そこからホワイト企業への道がスタートしたそうです。ただ、そこからもいろんな試行錯誤で、実際にいつごろからホワイト企業になったかは書かれていませんが、おそらくは数年間の地道な取り組みの結果だと思われます。

以上がカンタンですが西精工、西社長によるホワイト企業転換の事例です。


2. ぜんち共済株式会社の榎本社長


ぜんち共済は、知的・発達障がい、ダウン症、てんかんのある人を支えるための少額短期健康総合保険を扱う、日本で唯一の専門保険会社で、榎本社長が2006年に設立しました。障がい者とそのご家族の力になりたいという想いで作られたソーシャルベンチャー企業です。

創業から5年後にようやく黒字になったとのことですが、この5年間が本当に大変だったということで、榎本社長も線路に飛び込もうかと思ったほど追い詰められたそうです。そしてそんな状況では周囲との関係もよくなるはずもなく、創業メンバーとの関係も悪化。特に「本当は一緒に会社を創っていきたかった」という女性社員2名が辞めてしまったことについては、慚愧に堪えないと今でも悔やんでいるそうです。

このケースから言える1つ大事なことは、この事業に対する榎本社長の志はまっすぐなものであり、強かったんですよね。だけど、それだけではダメだったということ。社長個人に志が定まっているだけではダメなんですね。それをメンバーとこまめに共有することなく、「わかってくれている」と思い込み、コミュニケーションのズレが出て、メンバーとの飲み会では悪口大会になることも少なくなかったそうです。

そんな「自分が経営者として未熟だったために2人を傷つけてしまった」という後悔もあって、黒字化したあとは「どうすれば社員全員がイキイキと働けるのか」という問いの答えを探し求めていったそうです。

そして時系列情報が書かれていないのでどのような順番で行っていったのかわからないのですが、組織の縦割り体質を打ち破るしかけとして、いわゆる組織間横断チームの組成やスタッフへの定期的なヒアリングなど、組織の風通しをよくする取り組みを行ったということです。

そして榎本社長に大きな影響を与えたのが、書籍「人本経営」著者の小林秀司氏主宰の「人本経営実践講座」の1期生として参加したこと。そこで「企業経営で大切なのは、社員とその家族の幸せを一番に考えること」と教わったこと。それを聞いて、すとんと腹落ちしたそうです。

それ以降、講座での学びを次々に具体的な施策に落とし込み、実践され、これも年月は書かれていませんが、おそらく数年間かけて今のようなホワイト企業へと転換していったのだと思われます。

以上がカンタンですがぜんち共済、榎本社長によるホワイト企業転換の事例です。


3.有限会社アップライジングの斎藤社長


アップライジング社は宇都宮にある中古タイヤ・アルミホイールの格安販売を中心に事業展開を図るリサイクル業者。斎藤社長が2006年に創業されました。

斎藤社長はオリンピック代表候補に2度選ばれるほどの元ボクサーであり、以前は「強くなりたい」「有名になりたい」「大金を稼いで人々を見返したい」という一心で「他人の成長が嬉しい」と思えるような人間ではなかったとのこと。

そんな斎藤社長が、なぜ他人の幸福を追求するホワイト企業の社長へと変わっていったのか。

それは2011年の東日本大震災のボランティア経験がきっかけだそうです。創業から5年目のことですね。ボランティア先で、大きな声を出してラーメンを配っていたところ、あるおばあちゃんから


おいしいラーメンを食べられたことも嬉しいけど、あなたがわざわざ栃木からきて声をかけてくれる。その元気な声が嬉しいのよ。


と声をかけてもらって、その言葉に衝撃を受けました。

そして生まれて初めて、「他人が喜ぶ姿を見るのが嬉しい」と心から思ったそうです。

このときを境に、本当の意味で他人の喜びが自分の喜びとなり、以降ホワイト企業として表彰されるような取り組みが始まったようです。

そしてもう1つ、斎藤社長には大事なきっかけがあります。

斎藤社長が「これまでいろいろあった」親との関係で苦しんでいたとき、ある人は次のような言葉を送ってくれました。


斎藤君、他人を許すのだよ。他人を許すと、自分の心も緩むから。自分の心が緩むと、体中の筋肉が緩み、病気になりにくくなるから。また、自分の過去の行動、言動から後悔するのをやめて、自分を許すのだよ。自分を許すと、楽になるから。


これはあの斎藤ひとりさんの言葉とのこと。この言葉に出会って初めて、斎藤社長は自分自身を含むすべての人を許そうと思えるようになり、実際に許せるようになったそうです。それがアップライジング社が大切にする「許し、受け入れる文化」となり、その文化が今はホワイト企業経営の一翼を担っています。

そして朝礼をはじめとしてアップライジング社のホワイト企業経営を支える取り組みはいろいろあるのですが、今回その紹介は割愛させていただきます。

以上が斎藤社長によるホワイト企業への転換事例です。


4.ダイヤモンドメディア社の武井社長


不動産流通業界向けにWEBソリューションを提供するテックカンパニーのダイヤモンドメディア社。ホラクラシー経営、ティール組織の実践企業として超有名な会社です。それをゼロから作り上げたのが武井社長です。

そんな武井社長は、どのようなステップでダイヤモンドメディア社を作り上げていったのでしょうか。

まず最初に武井社長は若くして別の会社を起業し、そして失敗します。22歳のときですね。起業からたった1年で会社を手放すことになったそうです。そして、それがホラクラシー経営のダイヤモンド社を作る契機になったそうです。その点についての武井社長の言葉を引用します。


その挫折が転機になったことは間違いありません。
何の社会経験もないまま、僕自身のエゴで友人たちを巻き込み、彼らにまで借金を負わせて作った会社を、やはり自分のエゴであっという間に潰してしまったのですから。
仲間の一人は通っていた大学を辞め、もう一人は超一流企業のキャリアを捨ててまで手伝ってくれたのに、そんな彼らの人生を僕がめちゃくちゃにしてしまった。
『会社とは何か、組織のあるべき姿とは何か』と、本気で深く考えるようになったのはそこからですね。


そこから武井社長は経営やビジネスに関するあらゆる書物を読み込み、とりわけ強い感銘を受けたのが以下の3冊だったそうです。

「未来の経営」(ゲイリー・ハメル)

「非常識経営の夜明け」(天外伺朗)

「奇跡の経営」(リカルド・セムラー)

この3冊を読んで共通項が浮かび上がり、会社のあるべき姿が見えたと、以下のように語られています。


結局は「メンバー・顧客を含め、関わる人全員が幸せである」ことに尽きる、と思い至ったわけです。


でも、武井社長のすごいところはここからで、それを仕組みとして機能させるために試行錯誤し、武井社長がいなくなってもホラクラシー経営(≒幸福経営)がまわる仕組みを作り上げたこと。その思いについて以下のように書かれています。

しかし、僕自身がどれだけ人間性を磨いたり、人徳を積んだりしても、そういう会社の在り方を、創業者一人のリーダーシップだけで追求していったら、僕がいなくなったときには、そういう会社でなくなってしまう可能性が高いでしょう。だから、精神論に頼るのではなく、「みんなが幸せになれる会社」をシステム化して回していけないものかと。そう考えて、日々のオペレーションから組織設計、査定や採用などの制度設計まで具体的な経営システムを実際に構築してきました。


そして後日談ですが、武井社長は実際に2019年9月に社長を退任し新たな道に進まれました。

以上が、武井社長がホラクラシー経営を実践するに至ったカンタンな経緯です。


5. (まとめ)見えてくる共通点など


以上、4名の社長の「幸福経営に舵を切った流れ」を見てきましたが、いくつか共通項が見えますので少し整理していみたいと思います。

<苦しんだ末に幸福経営に舵を切っている>

アップライジングの斎藤社長を除く3名は、はっきりと「苦境経験」をきっかけに幸福経営へと舵を切っています。

西社長は、家業に戻ってきたときは幸福経営とは程遠い暗い社内でした。そして何より、西社長が戻ってくる少し前に、18歳の従業員が仕事中の事故で亡くなるという悲しい事件がありました。

ぜんち共済の榎本社長は、創業期の苦しみの中での2名の女性社員を追い込み、傷つけてしまった出来事ですね。

そしてダイヤモンドメディアの武井社長は、ご自身の1度目の起業失敗経験ですね。大切な仲間の人生をめちゃくちゃにしてしまった。

また、アップライジングの斎藤社長も、そこまではっきりとした因果は書かれていませんでしたが、父との関係の苦しみも間接的に影響しているかもしれません。

このような辛い経験があり、それをきっかけに幸福経営への道をスタートされていることがわかります。


<舵をきるきっかけとなった出会いがある>

また、幸福経営を目指すきっかけとして、人や本などとの出会いがあった、というのも共通する部分かなと思います。

西精工の西社長は、参加したある経営塾で「社員のことを謳っていない経営理念は理念ではない」という言葉を聞いて目を覚まされました。

ぜんち共済の榎本社長は、書籍「人本経営」著者の小林秀司氏主宰の「人本経営実践講座」の1期生として参加し、「企業経営で大切なのは、社員とその家族の幸せを一番に考えること」と教わったことが大きな契機となりました。

アップライジング社の斎藤社長は、東日本大震災ボランティア活動でのおばあちゃんからの感謝の言葉、また「人を許す」という斎藤一人さんの言葉などがきっかけとなって、「他人の喜びは自分の喜び」へとマインドが変わっていきました。

そしてダイヤモンドメディア社の武井社長は、感銘を受けた3冊の本から、「メンバー・顧客を含め、関わる人全員が幸せである」ことに尽きるという考えにいたりました。

このように皆さん何かしらの出会いにより、幸福経営に邁進することになったのですが、逆の視点では、苦しみ、どうにかしようと模索していたからこそ、そのようなものに出会えたとも言えるのではないかと思います。

ぼーっと待ってるだけではそのようなものには出会えないですし、また出会えたとしても目の前を素通りしていたのではないかと私は思います。

今困っていることをどうにかしよう、という強い想いがそういう出会いを引き寄せたんじゃないか、というのが私の感想です。


<自分なりの方法を追求している>

この4社はホワイト企業大賞の何かしらの賞を受賞された企業ですが、その具体的な取り組みは多種多様です。

賞の区分けでいくと、ダイヤモンドメディアと西精工は「大賞」ですので、総合点が高いのかなと思いますが、アップライジングは「人間力経営賞」、ぜんち共済は「風通し経営賞」と、ぞれぞれの特徴があります。

「ホワイト企業大賞」という制度は、「評価項目達成の自己目的化」を防ぐために、あえてアセスメント項目がガチガチに定めることはせず、

「社員の幸せ、働きがい、社会貢献を大切にしている企業」

という「抽象度の高い目指す姿」だけを設定しています。言い換えると、「この項目を満たせば受賞できる」といった体にはなっていません。

ということは、どうすれば「社員の幸せ、働き甲斐、社会貢献を大切にする経営」ができるかは、各社で自分なりのやり方を模索するしかありません。

そう考えたとき、ホワイト企業大賞を受賞するには、自分は「社員の幸せ、働き甲斐、社会貢献を大切にする経営をしたい」という、内側から沸き起こるパッションが経営者になければ、そのスタートラインにすら立てないことがわかります。

そういうパッションを持って、「自分たちの環境であればどのようなやり方が適しているのだろうか」と模索していく。そのような経営者の姿勢が、幸福経営を実現する大切な前提条件であると感じました。


おまけ:寺田本家の幸福経営転換のきっかけ


第3章で、 300年続く造り酒屋の寺田本家の事例も出てくるのですが、寺田本家も以前は幸福経営とは真逆の経営を行っていました。

そんな寺田本家が幸福経営に転換したのは先代社長時代だったのですが、そのきっかけの1つは先代社長が大病を患ったこと。そしてもう一つがなんと超常現象との出会い。

UFOをみたことがきっかけだったそうです^^;

UFO・・・ですか。

出会ったことのない私は、まだまだ修行が足りないのかもしれません・・・。

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