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夜のすきまで

*2020年コロナ禍、大学には一度も登校できず時間だけが有り余っていた時に書いた小説。疲れや怒り、失望や希望などの混ざり合った様々な感情をそれぞれの短編に分解することで整理したかったのかもしれないと今思う。

いつになったら朝が来るの?

何気なく発したその言葉はだれに届くでもなく狭い部屋の中で力なく消えていった。

あの時からずっと朝が来ない。寝ると朝が来るなんて恐竜の時代からの常識だと思っていた。夜は皆が聞き耳を立てている。暗く静かな夜は音が良く響く。半分空いた窓からどこかの風呂場で誰かが熱唱している声が微かに聞こえた。

何をつかむでもなく伸ばした腕は、行き場を失い居心地悪げに部屋の中をさまよった。この部屋の中でまだ何かつかめるだろうか。今日も一日が終わっていかないような気がする。手元にいつもあるスマホは魔法の杖より魅力的だけど、スマホの中には美しい物の何倍も汚いものがあるということには既に、気付いていたかもしれない。遠くで救急車のサイレンが鳴っている。夜を劈くつんざくその音は死んだように静まり返った街に響く唯一の鼓動のようで、窓を閉めた後も、大きく揺らされた鼓膜はまだ振動していた。

 

かわいい。
パソコンの中で水を飲んでいる香織の横顔を見た私はふとそう思った。いつもは、高校から一緒の5人で話しているけれど、今日はほかの3人の都合がつかなかったから香織と二人だけだ。普段は5分割されていた画面が今日は2分割になって、いつもより私の顔も香織の顔も大きく映し出されている。家で私と話すだけなのに化粧をばっちり決めている香織は外で会うよりもかわいく見える。始めて20分だけど二人とも飲み物ばかりを飲んでいる。

会話が続かない。

香織と一緒にいてそんな風に思ったのは初めてのことだったし、何か気づいてはいけないことに気が付いてしまったように感じて、慌てて横に置いてあるお茶で流し込んだ。お茶を飲む私の横顔を見ても香織はかわいいなんて思わないだろう。勢いよく飲んだお茶が気管に入りむせた私を、香織はそのかわいい顔で心配してくれた。

 

「春樹、風呂入ったのか?」惰性で見ていたテレビから僕の意識を無理やり引き戻すのはいつだって父の声だ。

「いや、まだ」

返事は求めていなかったのか父の顔も耳もテレビのほうを向いたままで、僕は少しふてくされる。相変わらず同じニュースばかりだ。今年の甲子園が中止になったらしく、甲子園ファンだという年を食った男が残念そうにコメントしている。その男と父の姿が重なる。父の食卓での熱弁も、もう何も覚えてないけど。

僕は野球に興味がない。でも、無理やり目標を奪われた高校球児はかわいそうだとは思う。3年間、もしかしたらもっと長い時間を甲子園のために費やしてきたのだから。でもテレビの伝える世界の中に卒業ライブが無くなった軽音部はいない。僕はそのことがとても悔しくて、心の中で罪もない高校球児たちに「ざまあみろ」と言っていた。僕たちも同じくらい必死で、全力で練習していたんだけどな。

風呂場で歌うと歌がうまく聞こえるのは音が反響するからだとあきらが言っていたのを思い出すけど、それだけじゃないと思う。風呂場の、肌にべったりとまとわりつく空気が、ライブハウスの熱気でむわっとしている空気と似ているんだ。体の毒素が抜けていくような気持ちいい汗をかくのにも似ている。

目を瞑ってもそこに観客は出てはこないけど、今日は自分のために歌おう。目標を奪われた高校球児も自分達で何かしらのけじめをつけているだろう。

僕たちは、この短い人生、既に妥協するのには慣れているから。

 

早紀さきもういいよ」LINEに夢中になっていた私の背後で眠そうな姉の声がした。

「えっ!お姉ちゃん早くない?」そう驚く私をあしらうように姉は「今日は人数が集まらなかったの」と言って足早に洗面所に向かっていった。パソコンで友達と話すことがマイブームらしい姉は、しょっちゅうパソコンに向かって話している。同じ部屋の私はその時間になると、話し声が大きい姉から逃げるようにリビングに退散してくる。いつもはあと1時間ぐらい話しているのに。

シャンプーの匂いが付いた枕に顔をうずめて私の一日は最高潮に達していた。パソコンは顔を見ながら話ができるのがいい、と姉は言っていた。でも、私は彼とLINEすると、いつも文字っていいなと思う。好きな人とのLINEってなんでこんなに楽しいんだろう。どんなに仲のいい友達とのLINEとも全く違う。送られてくる言葉は高校生っぽい似た言葉なのに。同じひらがな、同じカタカナ、同じ漢字なのに。その言葉に隠れているであろう意味を、感情を、必死でかき集めてしまう。どれだけ集まっても彼が私を好きだって証明できるわけじゃないけど。

さっきリビングで何となく見ていたニュースで、私みたいな卒業式や、入学式ができなかった人は、「人生の大切な節目が無くなって可哀そうだ」と言われていた。卒業式が無くなった私は不幸なの?入学式が無かった私はもっと可哀そう?嫌な感じ。ばーか!情け深そうに話していたコメンテータに言ってやる。勝手に可哀そうに見てこないで。私は今とっても幸せなのに。

ぴこん。

じんわりと温かくなってきたベッドの上で、スマホの振動が私の心も振るわせる。

先に更衣室で着替えを終え、入り口に一番近いテーブル席でうとうとしていた私の前を、成人男性にしては少し薄い体をした晃くんが駆け足で通り過ぎ、柑橘系の香りが鼻腔をかすめた。

営業を終え薄暗くなった店内は明日に備えて一足先に眠ってしまったみたいに静まり返っている。ホール担当の私はキッチンの人よりも締め作業が少ない。だからどれだけ遅くなっても店を出るのが22時を跨ぐことは無い。
晃くんとシフトが一緒の時以外は。

スマホの左上は22時55分を告げている。いつもならもう家に着いてる時間帯。特別でない日常をどうでもいいYouTubeを観て適当に終わらせるそんな時間帯。だけど今日の私にはこれからクライマックスが待っている。エンドロールはまだ流れない。

急にライムの匂いが強まったと思ったら耳馴染みのある優しい声がした。

「お待たせ」


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