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板倉雅一2ndソロアルバム制作日記その9

【いっぺいちゃん】

今日も歌入れ。これで4日目になるのかな?

今日の歌入れの曲は「追憶」と「Once Again」の2曲。
今回のアルバムの収録曲の中で、新曲の二曲になる。

二曲とも旅立ってしまった人のことを歌った曲だ。
「追憶」はひとつ前の日記にも書いた通り、母のことをテーマにした曲。
そしてもう一曲の「Once Again」は、The Fuseという浜田省吾さんのバックアップバンドのメンバーだった、一戸清くんに捧げた曲だ。

一戸清くんのことは、今までも折りに触れ書いたり語ったりしてきたけど、あらためてまた少し触れてみたい。

一戸清(いちのへきよし)くんは、僕たちの間では「いっぺいちゃん」と呼ばれていた。
年はぼくより2つ上。いっぺいちゃんと知り合ったのは、今から約50年ほど前のこと。共通の友人を通してだった。

当時ぼくもいっぺいちゃんも千葉県在住で、同じアマチュアのサークルに所属していた。そのサークルは「習志野フォーク楼」という名前で、当時流行っていた「広島フォーク村」とかの、地方発のコミュニティの数々の音楽サークルにちなんで命名されたのではないかと思う。

当時いっぺいちゃんは、たしか高校を卒業したばかり、ぼくは高校二年生の時だった。
いっぺいちゃんがやっていたバンドは「EEF」という名前で、曲はフォークタッチなんだけど、サウンドは彼の趣味が色濃く出たプログレジャズみたいな、なんとも言えない実に不思議な音を出していた。

いっぺいちゃんは音楽のみならず、科学的なことがすごく好きで、いろんなものを改造したり作ったりしては、みんなに紹介していた。ぼくはちょっとマッドサイエンティスト的な彼のキャラクターを、すごく不思議に感じていた。

ぼくはまだピアノを再開したばかりで(小学生の時にクラシックピアノを習っていたが、中学入学と同時に辞めていた)、あんまり弾けなかったのだけど、いっぺいちゃんはもうバリバリに弾きまくっていた。彼もぼくと同じピアノ弾きだった。

そんないっぺいちゃんとは、ぼくが高校を卒業してからもしばらくの間交流が続いた。
ぼくが熱海の旅館で住み込みでハコバンの仕事をしたのも、彼の紹介でトラ(ピンチヒッター)という形でのでの採用だった。

その後いっぺいちゃんとはだんだんと疎遠になって行き、ぼくは次第にいっぺいちゃんのことも忘れていった。

それから何年後かの1979年の7月、ぼくが浜田省吾さんと初めて一緒に演奏した時に、もうひとりのキーボーディストとしてバンドにいたのがいっぺいちゃんだった。
思わぬところで再会することになったぼく達は、お互いに驚きあったけど同時に喜びあった。

そんな縁で浜田省吾さんのバンドで、再びいっぺいちゃんと一緒にやることになったぼくは、その後彼と約4年半の時を過ごした。

彼と一緒の思い出深いライブを列記すると、79年の日本青年館、80年の池袋サンシャイン劇場、81年の広島郵便貯金会館、82年の日本武道館、83年の海の中道海浜公園、84年の渋谷公会堂でのファースト・フィナーレ公演等。4年半の間にそれこそ何百本ものライブを一緒にやってきた。

彼とは一時期、住んでいた家がすぐ近くだったこともあって、当時独身だったぼくは、すでに妻帯者だった彼の家でよくご飯を御馳走になりに行ったりもした。

浜田さんのツアーに出る際には、一緒に羽田空港や東京駅までタクシーに乗ったり、車に便乗していったりもした。
時にはツアーで20日間の旅や、一ヶ月の旅をしたこともあった。

とにかくいっぺいちゃんと一緒に旅をしていた何年間というのは、いくら書いても書ききれないほどに濃密な時間だった。そしてぼくの音楽人生の中で、一番苦しくて楽しい時期でもあった。

そんないっぺいちゃんと最後に演奏したのは、1984年2月19日NHKホールでの浜田省吾ファースト・フィナーレ、ファイナル公演でした。
この日を最後に、ぼくは二度といっぺいちゃんに会うことはありませんでした。

そして思わぬ形での再会となったのは、2014年の秋。
彼と最後に会ってからちょうど30年の月日が流れていました。
一戸清さん、60歳を迎えたばかりでの旅立ちでした。

そしていっぺいちゃんが亡くなってから、今年で10年。
彼のことを忘れないためにも、ぼくは彼のことを歌にして残しておきたいと思った。

今日はぼくにとってとて大切になるであろうそんな二曲を、心を込めて歌ってきました。

早くみんなにも聴いてもらいたいです。

今日のレコーディングでちょっとブルース・ハープも吹いてみた。

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