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静かに熱狂する裸体

男女交互のナレーションになります。

男:パン!(頬を叩く音。)
高い音を立てたのは、女のか細い手だった。
「別れよう。」
そう男が告げた直後、女はなにも言わずに男の頬を打った。
こんなとき男はいつも思う。
遊びのつもりではなかった。
それなりに誠意を尽くしたつもりだった。
それでもなお、女の愛は男にとって重すぎたのだ。
男はなにか言い訳をしようと口ごもった。
思考が端(はし)から崩れ去って、砂のように散らばっていく。
それをかき集めて、またひとつにしようとするのだが、
うまくいかない。

:「おまえ…。泣くかと思った。」
出てきた言葉には、自分でも驚くほど、
優しさのかけらもなかった。
二発目を覚悟して目を瞑ったが、何の気配もない。
気付けば、鼻先を女の長い髪がかすめるところだった。
男は手を伸ばそうとして、そんな権利はないことに気がつく。
後には、女の好んでつけていたベルガモットの香りが、
わずかに残るばかりだった。

:「全部。全部いらない。
捨てたんじゃない。
失くしたわけじゃない。
はじめから、なにも手にしてなどいなかったのだ。」
男と別れたのち、女はそう自分に言い聞かせた。
己が、絶対的な形、
普遍的な存在としての「女」を巧妙に真似て創られた
「女ではないなにか」のような気がしてやまない。
この流れる汗も、偽物なんじゃないかな。
山の手へと上る電車の中で、女は己の本質さえ見失って、
途方に暮れていた。

:「泣くかと思った。」
男は自分で自分の発した言葉を、口の中で無意識に反芻した。
「泣くかと思った。」
そんなのってあるか。
まるでなっちゃいない。
それは、駄目なやつだ。
心の中で、何度も何度も自分を責め立てる。
引っ立てられ、罪状を言い渡され、裁判にかけてられて、
見事に死刑の宣告も受けた。
そのうえで、自分に課せられるおぞましい刑罰の様子を、
詳細に思い描いた。
だが、いつまで経っても暗い牢獄にいる気分だ。
爪を噛む癖が再発しそうになる。
男はただ、己のふがいなさに我慢がならなかった。


:しばらく帰っていなかった自宅に着いた。
鍵を差し込んで玄関の扉をあけると、西日に焼かれた空気が、
わっと、女の顔めがけて押し寄せる。
ヒールを乱雑に脱ぎ捨てて、
足早に部屋を通り抜けながらカバンを放り出すと、
色あせたカーテンを手早く閉めた。
女の動作に迷いはない。
冷房を22度に設定して、浴室へと向かう。
まとわりつくシャツがもどかしく、しばらく格闘したのち、
ようやく裸体をさらす頃には、激しく息が上がっていた。
蒸し暑かった。とにかく、いまはそれだけを考えていればいい。
女はそのことで、頭をいっぱいにしていたかった。

:男は苛立ちの末に、立ち上がった。
風呂を貯めようとして、今日からその風呂は
自分ひとりで浸かるのだと気づく。
どうしようか。
シャワーで簡単に済ませることも頭をよぎったが、
男は水風呂に入ることにした。
こんな明るいうちから、
自分ひとりのために風呂を入れるのかと思うと、
とんでもなく馬鹿馬鹿しい贅沢をしている気分になった。

:浴室に入ると、女は、力任せにお湯を限界までひねる。
一瞬冷たいと感じるほどの熱湯が、足元を濡らした。
ためらいもせず、おもむろにシャワーヘッドを腕に滑らせる。
湯気でくもる視界にはいってくるのは、
小さなガラス窓ににじむ、空の最後の残り火だ。
紫に燃ゆるそれは、浴室をぼんやりと染めて、
女の身体のラインをあやふやにした。

:男は、薄暗い浴室で、風呂の端(はし)に腰掛けると、
水かさが増していく様子をなにげなく眺める。
水は浴槽のぎりぎりまで貯めると決めていた。
男にとって、己の形の、己の体積ぶんの水が無駄になることが、
いまはなにより大事なことに思えるのだった。

:女はきつく眼を閉じると、お湯を頭から被る。
汗の最後の一滴を絞り出すように、めくるめく熱を求めた。
肌を伝う水滴が、汗なのか、飛沫(しぶき)なのか、区別がつかない。
朝の一杯のコーヒーも、昼間の冷たいソーダ水も、
さきほど浴びた男の暴言も、女の身体を通って揮発していく。
まとわりつくすべてを流し終えると、
シャワーを水に切り替えた。
胸元(むなもと)、脇の下、足首と、じっくり冷やしていく。
ようやく女が薄目を開いたとき、
目の前には、もう、宵闇(よいやみ)がせまっていた。

:浴槽から水があふれ出す頃合いをみて、男は服を脱ぎ捨てた。
蛇口を閉めると、水滴の落ちる音が、ぽたん、ぽたん、と数回響きわたる。
そして、あたりは静まりかえった。
水面(すいめん)が落ち着くのを待って、静かに一歩ずつ、浴槽に足を踏み入れる。
真夏の水道水は思ったより、あたたく、心地よかった。
息を深く吸うと、思い切って一気に水底までしゃがみ込む。
勢いよく水が浴槽を飛び出し、滝のように、流れ続けた。
男はその轟音(ごうおん)が遠くで響くのを、耳の奧底で聞いていた。

:女は脱衣所にあがると、しばらくぼんやりと鏡の中の影を見つめる。
細く、弱々しく、頼りない影だった。
可哀想だな。急にそんな憐憫の情が自分自身に沸いた。
それをかき消すように、タオルで乱暴に髪の水気を拭う。
次に身体のすみずみまで拭き上げにかかるが、
火照った身体からは、玉の汗がとめどなく湧き出してきて、
女はその作業を放り出すしかなかった。

:男の身体は水中に潜ったまま、上がってこない。
水の中で目を見開くと、そこは別世界だった。
浅葱(あさぎ)色に染まる水面(みなも)を見上げると、
仄暗い天井が高く遠く揺れて見える。
窓から差す茜色の淡い光に靄(もや)がかかって、
男の目を優しく癒やした。
男の目方分(めかたぶん)の水がすべて流れ出てしまうと、
浴室はまた静かになった。
男はしばらくの間、沈黙を貫き、息を少しずつ吐き続ける。
そして沈んだときと同様、突然に、
激しい飛沫(しぶき)を上げて立ち上がった。
耳、顎先(あごさき)、肘先(ひじさき)、指先から、
大量の水を滴らせて激しく息をつく。
昼間の失態も、昨日の後悔も、すれ違った日々も、
浴槽に溶け出して、全部流れてしまえばいい。
そう男は願った。

:女は裸体をさらしたまま、部屋の中へ歩(ほ)を進める。
冷房の吐き出す空気は、女のすべらかな肌を直接的に刺した。
手早く赤い下着とアイボリーのキャミソールを身に纏うと、
カーテンの奧へ手をのばし、窓をそっと開く。
隙間から、残暑の生暖かい空気が入り込んで、
部屋の冷気(れいき)と混ざり合い、
女を夢と現(うつつ)の狭間に置き去りにした。

:風呂からあがると、男は下着だけ身につけて、半裸のまま部屋へ戻った。
冷房をつけた部屋が、生暖かく感じるほど、男の身体は心地よく冷え切っていた。
突然身体を放り出すように、男はばさりとソファに倒れ込んだ。
仰向けに転がって、窓枠に映る空の流れを見つめる。
なにか、重要なことを忘れている気がした。

:女は窓の桟(さん)に寄りかかり、すべて失い尽くしたと思った。
自分の中の美しいもの、正しいもの、醜いもの、ずるいもの、
何もかもが出て行って、残ったのは空っぽの入れ物としての身体。
そう思ったはずなのに、気づくと女のさっぱりと乾いた頬を、熱い涙が伝っていた。
終わったんだな。夏が。
「女ではないなにか」が、次第に女の形を取り戻してゆく。
都会の夜が、彼女をゆっくりと正気に戻すのだった。

:気がつくと、黄金色の空にひぐらしが鳴いている。
我を忘れて、はしゃぎ疲れた季節、虫の音(ね)など気にもとめなかった。
空の色も、雲の形も、記憶に無かった。
あるのはただ、熱い裸体の重みだけ。
風に流れていくかすみ雲を見ていると、
激しい夏の想い出も、空の向こうへ沈んでいくような気がする。
終わったんだな。夏が。
暮れなずむ町に、街灯がともる瞬間を見て、寂しさがこみ上げる。
男は自分が傷ついていることに、今更ながら気がつくのだった。

END

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