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濡れそぼつ

一人用朗読台本(男女兼用)


玄関の鍵がカチリと動くのと、女が目を上げるのが同時だった。
夕立の匂いが入り込んでくる。
もう金がない、と入ってきた男は首を横に振ってみせた。
逃げなきゃ、と女が思ったのは本能からだろうか。
でもどこへ逃げ場があるだろう。
男が握りしめた拳で、何度も何度も女を殴りながら、
「愛してんだよ」って叫ぶものだから、
女のほうも、「あれ、わたしなんで殴られてるんだっけ」
と考える暇もなく、鞄の中の財布に手を伸ばす。
「ねえ、これだけ、本当にこれだけしかないの、今」
そう言うと女はなぜか笑みを浮かべていることに、
鏡に映し出された己の顔を見つけて思い至った。
「殺されるかもしれない」
「まあ、いっか。どうせわたしがいないと、
絶対この人生きていけないんだし」
悦びも憧れも、希望も羨望も、
滅茶苦茶になった人生から取り出して、
この男の胸に投げつけてやろうか。
そんなことを思いながら、腫れ上がる顔を覆って、
ただ女は無言を貫く。

「さっきはごめん」
男の無骨な手は、女の血を吸って錆(さび)のように赫(あか)い。
「うれしいわ」
ことが終わると、とたんに息ができるようになるのは、
相手がこの男だからだろうか。
そうじゃなくても全然かまわないんだけど。
女は拗ねたふりをして背を向けてはみたものの、
息づかいで笑みをかみ殺しているのは明らかだ。
ふいに男がのしかかってくる。
男は女の血まみれの鼻をづづっと吸って、
慈愛に満ちた眼差しを向ける。
まるで二匹の獣のように、
そうして傷口をなめ合っていると、
そこには、ただ単純に治癒を目的とする潔癖さがあった。
「温泉、つかりにいきましょうか」
なんて言い出したのは、意外にも女のほうからだった。
「金持ってんじゃん」
男は勢いよく寝床から飛び降りて、
さっさと洗面台のほうへ向かう。
勢いよく流れ出す、蛇口からの水音にまぎれて、
男の乱暴な嗽(うがい)の音が聞こえる。
「あ、こいつ、まじ、ころしたい」
瞬時に湧き上がる殺意を悟られまいと、
「ねえ、いっしょに死のう?」
女は男を、極楽の淵(ふち)へと誘(いざな)う。
「いいよ」
と、男の声は勢いよく跳ね返ってきた。
それが、意外に痛かったので驚いていると、
ふと、顔の傷が気になって、
女は口紅やマスカラの散乱する鏡台へふらりと近づく。
そしてそこに映る自分の亡霊にあざとく笑いかけた。
「おまえは、だれのおかげで生きているんだ」
昔よく言われた台詞がとたんに女の脳裏をかすめた。
それを無理矢理押さえつけて、
胸の奥底にぎゅうっと圧縮してみたけれど、
誰に言われた台詞だっただろうか。
記憶の森へ片足だけのそりと入っていこうとしたとき、
男が洗面所から顔を出して、
「おまえ、誰のおかげで生きてると思ってんだ」
と問いかけてくる。
あれ、これってデジャヴだよね、と女ははっと我に返って、
「ねえ、シャワー浴びたら、出ましょうよ」
なんて言葉で思考を濁した。
かみ合わない歯車のような会話は、若い頃に流行った
継ぎ接ぎ(つぎはぎ)だらけのスクラップブックみたいだ。
アップから、ズーム。ワンセンテンス挟んで、絶叫。
「あれ、今なに考えてたんだっけ」
「そうだ、温泉、温泉」

夜が更けるころ、荷造りが終わった。
それは、二人で行う初めての共同作業となる。
過去の残骸に手を入れて引き裂いて、
どろどろになった心臓を上手く掬(すく)って
秘密裏(ひみつりに葬(ほうむ)るのは、遺体の解体作業に似ていてた。
最後の旅行に出るには、あまりに軽装だったが、
二人に与えられた時間は残されていなかった。
お気に入りのボストンバッグは「重すぎるだろ」
との男の主張に女が折れて、小ぶりのキャリーバッグとなった。
部屋に転がるあらゆるものを詰め込んだはいいけれど、
それでも荷物のスペースは埋まらないほど、
家の中にはなにもなかった。
女が恨めしそうな目で振り返って見る空間には、
思い出も亡骸(なきがら)も残像もなくて、
ただ絶望だけが鎮座しているのだった。
男はそれを見て見ぬふりをして、玄関のドアを開く。
二つの影が、声もなく出て行って、扉が閉まる不穏な音すらも、
激しい雨音にかき消されていった。
 
男は傘と荷物を持って、女はただ孤独を抱えて、雨に耐えた。
駅までの15分が、破滅へと近づく発端であることを、
二人は痛いほどわかっていた。
水を吸って重くなった男のスニーカーに、
女のヒールが派手な飛沫(しぶき)を上げて追い打ちをかける。
一歩踏み出すごとに、女は男に憎まれ、
男の沈黙が、女に背を焼くような懺悔の心を抱かせるのだった。
「ごめんね、歩いててごめんね、
息しててごめんね、
ごめんねって何回も言ってごめんね」
風のない空気の重たい夜だった。
雨粒は容赦なく街に襲いかかり、
穴という穴、溝という溝を満たし、溢れさせた。
未曾有の大惨事という中、不運をかき分けて進む二人には、
もういっそ、清々しいほど後がないのだった。

宿に着いたのは、夜半すぎだっただろうか。
さびれた温泉街を通り抜けてきたが、
誰一人としてすれ違わなかった。
堂々と世間を歩ける身ではない男にとって、
それはただひとつの幸運だった。
女はひどく憔悴して見えたが、
男が宿帳(やどちょう)に殴り書きした名前を横目で見やると、
おとなしくそれに習って偽名を書いた。
この人には、まだ生きる意思があるのだろうか。
ふと、そんな疑問が女の胸を過(よぎ)る。
終わらせてしまいたいという女の欲求が、
男の跡をつけて、生まれゆく妄想の常闇(とこやみ)へと引きずり込む。
じりじりとした視線で穴の開くほど男の背中を見つめる女は、
割れた酒瓶(さかびん)、砕け散る灰皿、吹き出す血潮、
衣擦れ(きぬずれ)の浴衣の帯を一瞬にして想像した。
男は一度も振り返りもせず、
ただ淡々と女などいないかのような速度で歩いて行く。

古い宿だった。二階の奥座敷の引き戸を開けると、
古い油と黴(かび)の匂いがした。日に焼けた畳の上には、
黒光りする座卓が用意されていて、
その上に水筒と茶碗と僅かばかりの菓子だけが、
整然と並んでいる。
二間続きの和室は、奥の暗がりに布団が積んであった。
しばらく部屋を眺め回して、据え置き型のエアコンを見つけると、
男はスイッチを入れたが、
それは小さな緑のランプを点滅させるだけで、
相変わらず部屋は静かなままだった。
男は荷物を畳に勢いよく放り出すと、
滴り落ちる雫をぶるっと振るい落とした。
「風呂行ってくるわ」
着替えを取ろうと屈み込んだ瞬間、
女の足にできた肉刺(まめ)が潰れてひりひりと痛む様子を、
斜めにちらりと見つけた。
しかしそれには触れず、ただ1人分の浴衣とタオルだけ持ち出して、
男は出て行った。
女は寒々とした部屋に、ひとり取り残されて
呆然としている様子だった。
しかし、視線だけ動かすと、
部屋中を隈なく見渡して、先程のイメージを追う。
酒、煙草、灰皿、鴨居、浴衣の帯。
そして荷物の中に潜ませた睡眠薬。
視界に赫い靄(もや)が立ち込めて、
終幕の有様を映し出そうと怪しく揺らめく。
突然身体から力がぬけるように、女はばさりと服を脱いだ。
用意してあった小さな薄い手拭いで、軽く水気を拭くと、
白地に紺の格子柄の入った浴衣に着替えた。
寒さが足元から込み上げてきて、
青白い首筋の表面を粟立たせる。
鼻の奥に刺すような痛みが走り嚔(くしゃみ)が出そうになるのを、
息を止めて噛み殺した。
ひどく瞼(まぶた)が重かった。
女はゆっくりとした瞬きを数回する裡(うち)に、
夢の断片を見た気がした。
横になりたい。
ゆっくりと奥の間に進むと、
揺蕩(たゆた)うような鈍(にぶ)い手付きで、
畳んである布団を引き寄せる。
それに包(くる)まると、女は長い息を吐き出して、
ようやく目を閉じた。
そして難破した帆船のように、畳の海の中に沈んでいった。

僅(わず)かな音がして、女が目覚めたのは、
五月蝿(うるさ)かったからではない。
瞼の裏が明(あか)くなったのだ。
「電気くらいつけろ」
蛾の羽ばたきのような音は、
古い蛍光灯が灯(とも)るときの音だったようだ。
石鹸の匂いを微(かす)かに漂わせた男が、
視界に立ちはだかっている。
大きい、と女は頭の片隅にその事実を刻んだ。
また鼻の奥がつーんとして、
今度は嚔(くしゃみ)を2度続け様にやった。
男は黙って女の頭を小突く。
いつもの慣れた仕草は、
女を和ませようと発した親愛の証しにも見えたが、
その影で女はその痛みを絶対に覚えていようと誓うのだった。
「ねるぞ」と言いながら、下で買ってきた酒を手にするあたり、
男は何も気づいてない。
女は横目でその様子を伺う。
男の火照った身体に、酒がどぼどぼと注がれ、
満たされて溢れ出る想像をしてみる。
そこに一滴の毒を投じると、
それは膜のように男を包んで身体ごと閉じ込める。
そして男は静かに熱を失っていくのだが、
女はその最期の姿に何か物足りなさを感じた。
赫い靄(もや)がまたどこからともなく漂ってきて、
女の頭を揺るがす。
傷だ。
圧倒的に足りないのは、男の皮膚を破る傷だった。
女は自分の弱々しく淡い爪を見つめる。
威嚇(いかく)にもならないか、と、それをぎゅっと拳の中に隠した。

しばらくすると、男は煙草に火をつけた。
なにか聞き取れない独り言を呟いたようだったが、
女はそれに何も言わない。
黙って布団ごと擦り寄ると、男は女の身体の冷たさを快く思い、
空いていた片手で胸元をまさぐってくる。
女はようやく我にかえると、灰皿を引き寄せるふりをして、
その手をやんわりと躱(かわ)した。
男はそれ以上要求してこなかった。
女は布団を被ったまま、ふらつく足取りで立ち上がると、
荷物のある入り口まで歩いて行った。
しゃがみこんで、中から薬袋(くすりぶくろ)と手鏡を取り出す。
「もう飲むのか」
男がふいに話しかけてくるものだから、
「寝る」とだけ言って、
水筒の水を飲みに座卓までまたずるずると布団を引き摺った。
そこから女の記憶はない。

夢の中で女は古い古いフィルムを観ていた。
赤黒い線で輪郭を描く人物たちは、皆、
どこかで見覚えのある顔触ればかりだった。
サイレント映画のようにそれは規則正しいリズムを刻む。
カクカクと動いては止まりスクラッチを繰り返すものだから、
女はもどかしさに手をのばすけれど、指先は空を切るばかりで、
それに触れることは叶わなかった。
かつての学友達が現れては立ち消え、
父の顔には途切れ途切れに線が走り、
兄弟たちのバックショットから、
母の赫い乳嘴(にゅうし)を噛むところまで、
記憶のフィルムは多岐に及んだ。
「おまえはだれのおかげで生きているんだ」
そこに登場する誰もが、女に目線を送るたび、
そう口にしていた気がする。
そして笑っていた気がする。
女はそのフィルムを再々(さいさい)見返すために、
毎回金を払わなくてはならなかった。

夜明け前、女はからくり人形のように、
床(とこ)の中でぱっと瞼(まぶた)だけ開いた。
今しがた見ていた夢を言葉にしたかったが、
閉じた口からは呻き声も出なかった。
「おまえはだれのおかげで生きているんだ」
その言葉だけ、胸の奥に重石(おもし)のようにずっしりと居座って、
女を床(とこ)の中に押し留めるのだった。
しばらくして金縛りにあっていたことに気づいた女は、
目を閉じてじっと刻(とき)が過ぎるのを待つ。
「あれ、わたしなんで毎回この人にお金渡してるんだっけ」
少額から数十万単位まで、出費が続いたのはわかっているものの、
女は一度もそれを搾取されたとは感じていなかった。
むしろ、自分はまだまだ男に借りていて、
いつでも男にはそれを取り立てる権利があるような気すらしてくる。
「なぜって、わたしを愛してくれているから」
すべてそう。すべての愛、すべての優しさに、女は対価を払う必要を迫られる気がするのだ。
それはときに、身体だったり、労働だったりもするけれど、一番しっくりくるのは金を払うことだ。金は少しの間、女を焼き尽くすような焦燥感から救ってくれた。
「ありがと」
そう呟くと、不思議と胸は軽くなり、むくりと起き上がることが出来た。

ふと、横を見ると、男が高鼾(たかいびき)をかいて酒臭い息を吐いている。
ポッカリと天に向けて開けられた口は、地獄の入り口のようだ。
女は枕元の灰皿に目をやった。
ガラスで出来た来客用の灰皿は、
十分な重さと強度を備えているように見えた。
やろうか。
腕をそっと灰皿に伸ばす。
動悸がぐんと速くなるのを感じると、
あ、これって現実なんだ、
と女は一瞬ひるむように見せかけて、
なおも灰皿へにじり寄った。
薄明かりの中よく見ると、敷き布団がふたつ、
きれいに並べて敷かれていることに気づいた。
酔った勢いのまま、布団の山に雪崩込んだわけではなさそうだ。
女が寝入ったので、しぶしぶ自分で床(とこ)を整えたらしい。
なんだか、そう思うと可哀想になってきて、
女はしばらく動けなかった。
こんな繰り返しをいくつ経験してきたことだろう。
こんな些細な思いやりが、女にはひどく特別な優しさに思えて、
何度も、何度も許してしまうのだ。
終わりにしたい。
女ははだけた布団の中から、浴衣の帯をしゅっと引き抜くと、
女の形のままの浴衣をずるりと残して、
そのなめらかな素肌を青白い薄明かりの中に晒した。
猫のような足取りで、そっと男の寝床から離れ、
荷物のところに行くと、中から、財布と通帳を取り出す。
そして、身軽な服に着替えると、
カラカラカラ…と雨音に紛れて
部屋の外へと出て行った。

男が目を覚ましたのは、女のか細い声を聞いてからだった。
「ごめん」
一瞬、男はここがどこなのかわからずに身構えて飛び起きる。
しとしとと、まだ降り続く雨の音がカーテンを閉めた部屋の中に
充満していて、今が何時なのか、これが現実なのか、甚だ疑わしい。
「なんだおまえ、どうかした」
と言い終えると同時に、女に何か紙のようなものでひっぱたかれる。
男はなにが起っているのか皆目わからないまま、
布団の上に瞬時に立ち上がった。
女の頭は見下ろすほど小さい。
正座した女の形は、頑固に整っていて、いつまで待っても動かなかった。
「おまえ」
声をあげたとん、女の握っているのが札束だと気づいた。
「これあげる」
「だからしんで」
男が女に掴み掛かるのと、女が灰皿を振り上げるのが同時だった。
男の手のほうが一瞬遅く、女の一撃が決まる。
ごすっと男の鼻が音を立てて砕け、
ややあって血のぬくもりが男の内(なか)を伝う。
女はその隙に背後に回り、浴衣の帯で男の首を狙うが、
男はさほどダメージを負ってはいなかった。
膝から崩れ落ちながら、身体を捻って女の足首を捉える。
ずるっと引き寄せられた女はバランスを失くして布団の上へと転がった。
そこから、女はさらに酒瓶(さかびん)を持ち出そうと試みる。
しかし、その獲物はすでに男の手に握られていた。
ごすん
という鈍い音がして、女の後頭部を打った酒瓶は、割れもせずに、
まだ男の手の中にあった。
「なんだよ、おまえ、もってんじゃん」
「もってんじゃん、もってんじゃん」
男の声は低音から、悦びを含んで高音に跳ね上がり、
何度も女に赫い火花を見せた。
女が持っていた札束は、踏まれたり揉まれたりしながら
畳の上へ放り出され、部屋中に散乱していく。
それを、遠くなる意識の中、女は目撃して微笑(わら)った。
血か、金か。
はたまた愛か。
女はまだ意識のある内に、灰皿を手にすると、男めがけて再度投げつけた。
ごおん
と命中した灰皿は、はやりヒビ一つ入ってない。
最後はつかみ合って、たたき合って、喰らい合って、
二人は上へ下へとなりがら、畳の海からシーツの波間を転がり、
また、起き上がっては我武者羅にむしゃぶりつくのを
繰り返した。
「いいかげんにしろ」
男のあがった息が、女の耳元で爆ぜる。
「しんでよ」
「ころしてよ」
女の呪いのような叫びも、男の耳元で爆ぜる。
女の金という『暴力』は、男の腕力という『暴力』の前で
壮絶な戦いをみせていた。
汗だくになりながら、湿度と濃度を増していく部屋の中を
彷徨っていると、ここがどこなのかも、今がいつなのかも、
お互いに何に怒っているのか、もしくは戯れ合っているのか、
何一つ定かではなかった。
血と汗と、雨の匂いを放ちながら、
男と女は濡れそぼつ一体の亡霊のように永遠を漂うのだった。

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