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かすみのなかのこどもたち1

「何が欲しいって。プレハブ小屋がひとつ。あとは何もいらない。小屋の中には大きすぎるウサギのぬいぐるみがひとつ、ぎゅうぎゅうに詰め込んであって、わたしが入るスキマなんて、ほんのちょっとでいいの。ほとんどウサギ小屋。それがわたしの夢かな。」
サクラは、9歳の誕生日を前にして、わたしにこっそり夢を教えてくれた。
普通の大きさのウサギのぬいぐるみをプレゼントに用意していたわたしは、彼女の望むものがプレハブ大の大きさであることを知って、渡すのを諦めた。
こどもに「気を遣わせる」わけにはいかないからね。
プレハブ小屋はプレゼントできないが、わたしは彼女の誕生日会をアパートで盛大に執り行うことにした。
妹夫婦の一軒家から、車で15分の海沿いに、古い寂れた公団があって、わたしはそこに長年住み着いついていた。
6畳一間に、コンロがひとつの簡易キッチン。
かろうじてユニットバスが付いていた。
姪っ子の目に晒すには、多少の恥ずかしさもあったが、これがいまのわたしの棲家だ。
どうしようもない。
わたしは、ここでひたすら、絵を描いては、街へ売りに行く生活をしている。
街の反応は冷たい。今じゃ、テレビやネットで本物の海を見ることなんて容易いし、海をモチーフにした絵なんか、五万とある。
だけど、わたしは今日も海の絵を描く。

初めて海を見たのは、いつのことだっただろう。遥か遠い記憶の巻物を紐解いて、やっと見つけ得るのは、はじまりの描き出しに遡る。
わたしは、父の両の手の中にあって、その囲われた安全地帯の中で海が波打って揺れている。お日様が眩しい光を波間に投げかけて、わたしがその陽だまりを掴もうと水面を掻きもがくのを、父の日に焼けた胸が守っていた。しかし、わたしにとって海も未知ならば、父もまた未知の存在だった。
溺れないように掴んだ父の毛むくじゃらの腕は、触ったことのない感触で、これはわたしとは別の生物なんだって、初めて不思議な違和感を覚えたんだ。それ以来、海を見ると危険に触れているときのドキドキ感がつきまとう。
スリルと好奇心が入り交じって、目を離すことができないでいる。

「どうしてシズカは、怖いものが好きなの?」
そう聞いてきたのは姪っ子のサクラだった。
街中で海の絵を何枚も広げて売っていると、学校帰りのサクラが後ろから近づいてきて、絶妙なタイミングで話しかけてくる。
そんなとき、わたしはサクラをたまらなく愛しく感じた。
だから、サクラには、特別な秘密の話をしてやることが多かった。
中でも、サクラはわたしが見た夢の話を好んで聞いていたように思う。

幼い頃の夢は目が覚めても恐ろしいものは恐ろしかったし、美しいものは美しかった。
例えば、夢の中のコスモスは不吉で、それは初めて飼った犬のジャッキーを山に埋めたとき、一緒にコスモスの花の種子を埋めたからだ。父の働くコンビナートの工場夜景は美しく、海に映って煌々と輝いてはいたが、いつも不在の父を想うたびにそこは遠い月面を思わせ、月面からの連想で、テレビ画面で見た宇宙ロケットの爆発を思い出すわたしは、夜中にふらふらと歩き出し、泣きながらビッグバンの恐怖とその衝撃に胸をゆさぶされたものだ。

サクラは、わたしのそんな悪夢を根掘り葉掘り聞いては、それを絵日記に書きつけて、親や先生に心配をかけるのが常だった。
「どうしてわたしの夢なんか描くのよ?」
困り果てたわたしが訊ねると、サクラは母親ゆずりのイタズラな眼差しでこちらを見ながら、「だって誰かがシズカを助けなきゃいけないじゃない?」と問い返す。
そんなとき、わたしはありがた迷惑だわ、と思いながらも、姪っ子の絵の才能だけは認めざるを得なかった。

あるとき、わたしはついつい無意識にこんな話をしてしまった。
「最近なのよ。ずっと変わらない夢の中の運命みたいなものを背負い始めたのは。
わたしはずっと夢の中でマンションの一室を借りていて、月に6万3千円を支払っているの。だけどそのマンションは床から天井までの高さが50センチ程しかなくて、ずっと伏せているか、寝そべった状態でないと暮らせないのよ。
普段は別のところに住んでいても、なぜかそのマンションを借りてることは心のどこかに引っかかってるの。
毎月、きちっと家賃を払って、住み心地の悪い薄暗い小さな部屋を胸の奥底でなんとかしなければと焦ってる。
そういうことってないかしら?」
サクラは古びた人形にバレエの型を練習させながら、黙ってわたしの取り留めのない話を聞いていたが、ちょうどその日の絵日記に、そんなわたしの夢を描いてきた。
それは、天井が50センチしかないマンションの絵だったが、何も知らない人には、人間の収まった棺桶が下から上までミルフィーユ状に積み上げられた、死体の山の絵に見えた。
さすがに困惑した妹夫婦は、町で評判の精神科医にサクラを連れて出かけたが、わかったのは、サクラがIQ132のギフテッドであるという、複雑な事実だけだった。ギフテッドについては、わたしは語らない。みんな勝手に騒いでろって、ただそれだけよ。
学校は、サクラにとって窮屈な場所だったのだろうか。ゴールデンウィークが明けた次の日、サクラは真昼間からわたしの路上売り場に現れて、ずっと耳を押さえたり、頭を振ったり叩いたりしていた。
「どうしよう、お友達の声がワンワン聞こえるの。だから抜け出して来ちゃった」
さすがに心配になったわたしは、妹の家までサクラを送って行った。
それ以来、サクラは保健室登校となった。
同時に、わたしの仕事場に来ることも多くなった。
商売の邪魔になるかと心配したのはわたしの杞憂だった。サクラは足を止めた人に、それぞれの海に関する興味深い話をしてやって、その魅惑的な話には、嘘が巧妙に隠されていて、私は初日から舌をまいた。

例えば、蛸(たこ)漁に出かけようとしている船を描いたものには、視覚的精神世界を体現しているのが蛸という生き物であり、蛸という生き物がいかに私たちの期待を裏切る生態をしているかをこんこんと語ってみせ、その精神を捕まえようとするには漁師と蛸の気の遠くなるほどの騙し合いが必要なのだと締めくくった。海はもっともっと人間の考えなど及ばない高尚な世界を内包していながら、月にも太陽にも支配されるふりをしている、とびきりの腕のたつ詐欺師なのだというのが、彼女の持論だった。

そんなサクラを、わたしは魔法で少女の姿に変えられた哀れな学者として扱うことに、日毎慣れていった。
だからこそ、彼女の誕生日の願いが思い切り子供じみていて、生まれて初めてうち明け話をした少女のような照れ方をしていたことが、意外でもあり、非常に尊いものであると思ったのだ。
誕生日の8月27日のお祝いが、彼女の家では晩餐と共に行われることをわたしは知っていた。
それが慣例だったし、だから、わたしのアパートへの特別な招待は、当日の昼間に行うことにした。
誕生日前日に届くように、わたしは正式な招待状を彼女宛にしたためた。
そこには、彼女の家から最寄り駅に迎えに行く旨が書き付けてあり、そこから先は案内人に従うように、とわざと謎めいた終わり方をさせた。その方が、サクラ好みのような気がしたのだ。
その日は、よく晴れた夏真っ盛り、日向のアスファルトに立っていると、サンダルがチョコレートのように底から溶けてなくなるような気がした。
駅に降り立ったわたしは、吹き出る汗を拭うこともせず、周辺に目を走らせた。
もしかしたら、もうサクラが来ているかもしれない。時間は昼前の11時45分。待ち合わせは、12時としていたが、ふらふらと町に出歩く癖のあるサクラのことだ。
この炎天下、まさかとは思ったが、夏休みに入ってあちこち出歩いて困ると妹から聞いていたことも相まって、つい日陰になったベンチや電話ボックスの影など、探し回ってしまった。
そして、そんなわたしの心配なぞ何処吹く風のサクラは、12時5分前に、坂の下の曲がり角から姿を現した。それが、よく似た別人ではないかと疑ったのは、いつもの短パンにTシャツ姿の少女ではなく、真っ白いワンピースを風に靡かせ、小ぶりの麦わら帽子を被った、正真正銘の令嬢がそこに現れたからだ。
坂をゆっくり昇ってくる間、彼女の眼差しは帽子の影に隠れて見えなかった。ただ、ピンク色の口元だけ、かすかに微笑んでいるように見えたので、わたしはそれがサクラだと確信したのだ。
「今日はご招待、ありがとうございます」
ゆっくりと帽子を脱いだ彼女は、ごっこ遊びをするとき特有の慇懃な丁寧語を使った。
「いえいえ、こちらこそ、来ていただいて光栄です」
わたしも、にっこり笑って、彼女の調子を真似た。
そして、差し出された彼女のよく日に焼けた手を、まるでレースの手袋をした令嬢の手のように、軽く支えると、駅のホームへといざなった。
彼女は、役に入り込みつつも、ときどきこっそり、そのワンピースが隣家の同級生の女の子から、内緒で借りたパーティ用の本物のドレスであること、麦わら帽子は、母が新婚旅行に持って行った、思い出の品であることなどを、耳元で囁くように早口で教えてくれた。
そしてまた、まっすぐな眼差しを正面に向けて、気取った態度でわたしに接するのだった。
電車が来たのは12時12分、カンカン照りの太陽が、つむじを焼くように容赦なくわたしと令嬢に降り注ぐところに、それは救世主のように現れた。
「馬車がきたわよ」
サクラが支えていたわたしの手を軽く握って、呟いた。
開くドアの正面にいたわたしたちは、クーラーの効いた電車の中へ、そっと足を踏み入れる。
夏休みとはいえ、真昼間のローカル線は人もまばらで、その少ない乗客からも離れた座席をふたつ確保したわたしたちは、まだ令嬢ごっこを続けていた。
「今日は何月何日だったかしら。」
とぼけた調子でサクラが訊ねると、わたしは従者にふさわしく、すばやく手帳を繰るふりをして、答える。
「本日は、8月27日でございます。」
「なんの日か、あなたご存知かしら?」
「もちろんです。お嬢様の第9回目の生誕祭ですから。」
すると、前を向いたままの姿勢で、わたしの手に手を重ねたまま、しばらくサクラは何も言わなかった。
わたしも、なにも言わないのは、サクラがこの先の展開を思案しているものと考えたため、こちらからも何も言わず、しばらく目の前の風景だけ、流れて行った。
何軒かのアパートと見慣れた大型ショッピングモールが過ぎ去ったあと、少し盛り上がった林の向こうに白い病院が見えた頃だった。
「真夏に生まれたのに、サクラっていうの」
サクラが唐突に口を開いた。
「向日葵とか、真陽菜(まひな)とか、そんな名前が羨ましかった。」
わたしは、足元を見つめて黙っていた。
「わたしの名前と同じ子は、だいたい4月生まれだから、わたしより少し年上のような気がするの。」
電車が次の駅に着いて、ドアが開く。
わたしたちが降りるのはもう一つ先の駅だった。
クーラーの冷えた空気がドアから出て行って、代わりに熱風が吹き付ける。
だけど、ふたり目を合わせることもせず、ただドアの向こう、駅前に新しくできたケーキ屋を見つめていた。
アナウンスが流れ、沈黙のままドアが閉まる。
ケーキ屋も、駐輪場も等しく加速する電車の前を通り過ぎていく。
しばらくして、赤十字病院の白く大きな姿が遠く山沿いに見えてきた。
「サクラって、わたしの死んだお姉ちゃんの名前なんだって。」
突然、サクラがわたしの方を振り仰いだのを、わたしは目の端にとらえながら、無視をした。
「シズカは知ってたんでしょ?」
握っていた手を揺すられて、さすがに胸が痛んだ。
「何言ってるの。サクラはサクラだから。」
目の前の景色が消し飛ぶように過ぎ去って、ここが何処なのか、もうわかりやしない。
「お姉ちゃん、産まれてすぐ死んじゃったんだって。」
わたしは目を瞑った。
サクラはわざとらしく明るい調子を保っている。
「だけどさ、同じ名前つけなくてもいいのにね。サクラの次はツツジが咲いて、紫陽花だって、朝顔だって、向日葵だって、サクラがどんなに綺麗でも、季節が変われば花の名前も移り変わるのにさ…。」
わたしは黙り込んでしまった。
なにか言わなければと思えば思うほど、喉が干上がった。
電車のゆるやかなブレーキに合わせて、サクラの小さな重みが、身体に寄りかかってくる。
「シズカ、降りないの?」
サクラがわたしの手をとって立ち上がろうとするけれど、わたしはその手を固く握りしめたまま、腰を上げることが出来なかった。
「…ごめんなさい。」
サクラが諦めたように謝ったのが、悲しくて悲しくて、わたしはわざと、目の前のドアが閉まるままに任せた。
「シズカなら、本当の話をしてくれるって、わたし思ったの。」
サクラの声は落ち着いていた。
誰の台詞だっけ。
子供に気を遣わせてはいけないからねって?
誰の台詞だ、誰の。
こんなの、普通のウサギのぬいぐるみを渡すよりよっぼどタチが悪い。
だから、サクラはみんなのいる家よりプレハブ小屋を欲しがったんだ。淋しくないように、特大サイズのウサギの化身を欲しがったんだ。
なにもかも裏の意味を知って、ようやく合点がいった。
わたしは、汗をふく振りをして、涙を一気にぬぐうと、握っていた手を開いて、戸惑うサクラを正面から見つめた。
「今からシズカが話すこと、信じてくれる?」
電車が公団の前をゆっくり通り過ぎていく。
この話の行先がこの限界まで大人びた小さな少女の幸せに繋がるように、わたしはサクラの名前の由来をあらゆる角度から吟味した。
きっと、どんな言い方でなにをねじ曲げても、わたしはこの傷ついた魂を抱きしめて温めてやることしかできない。もう、壊れたハートは元通りにはならない。
おそらく、話は終点まで続くだろう。
あらゆる言葉の応酬を終えて、今夜の晩餐に帰る頃、妹夫婦が一切の嘘のない笑顔でサクラを迎えてくれるのを、わたしは願うしかできない。
または、いっそこのままサクラを連れて、海の向こうに消えてしまいたい。
この呪いのような美しい海を渡ったとき、わたしは二度と絵筆をとらず、可愛い少女を傍らに置いて、プレハブ小屋で幸せそうに暮らしていく。
思い出だけ詰まったなにもないプレハブ小屋で、新しい生活を始めるんだ。
ねえ、サクラ、それじゃ駄目かな。
そんな夢、大人は見ちゃ駄目かな。












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