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月の妹たち 第三章 ~揺るがぬ夢~

その夜、家を抜け出した町の住人は、小さな姉妹だけではなかった。
姉妹の広々とした平屋建ての家から、2キロ先、田園地帯の端にぽつんと建つ古いアパートの一室。女がひとり、午前1時に明々と蛍光灯の灯るバスルームで、日焼け止めを肌になじませていた。
その上から、化粧下地を塗って、ファンデーションを施すと、顔を鏡に左右照らして出来映えを確かめる。滑らかな顔の質感に満足した女は、瞼の上に丹念なグラデーションを作って、マスカラを塗った。そして仕上げにローズピンクの口紅を上下の唇を合わせてのばす。
長く艶めく髪を下ろす仕草は手慣れたもので、これが毎日の日課であることは明らかだ。
そして、鼻歌まじりに、今度はマホガニーの木の縁に入った大きな姿見で、今夜のコーディネイトを確かめる。唯一、足りないのは、その長い足をさらに引き締めるハイヒールだけだ。
それを玄関でひょいっと両足に引っかけると、女は悲しくなるほど軽いアルミ製の扉を片手で開いて、夜の、掛け値なしに純粋な孤独の中へ漕ぎ出す。
だれも私を見るべからず。
触れるべからず。
美しさとは、意識の物差しの上ではかれるものではない。女は、月だけがそれを見つけ出すのを許す。月明かりだけが、彼女のスポットライト。
アパートの敷地内に敷かれた砂地に、ハイヒールのうずまるくぐもった音が数回響いたあと、アスファルトを打つ鋭いステップに変わった。彼女はスキップしていた。
ゆったりとしたその懐かしい足取りは、開放感に溢れていて、女の鬱屈とした精神に新たな風が吹き荒れるサインだった。
わたしは激しいダンサー、わたしは密やかな舞妓、わたしは頂点の歌姫、わたしは憧れの愛人、わたしは大胆な娼婦、わたしは貞淑な貴婦人。

イロハモミジの青い葉が作る涼しげな影が、女の髪の上を流れていく。流れた夢の数だけ、女は早足になる。
だれにも見つからない確証が、女を大胆にしていた。
いつからだろう。夜中にキンキンに冷えた夢をみるようになったのは。
いつからだろう。夜の危険に身をさらす快感に慣れたのは。
そして、広々とした農道を行く大型トラックの遠いかすかな光だけが、彼女をときおり郷愁の思いにふけさせるのだった。

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