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月の妹たち 第四章 ~命日~

月の織りなす不思議なヴェールが、二重に連なる瞬間をみたことがある人間は、どれほどいるだろう。
その日、夕方7時に早すぎる床についた七十八歳の老婆が目を覚ましたのは、閉め忘れたカーテンのせいで、窓から入ってくる月光がわずかに強まったのを薄い瞼が感じ取ったからだ。
ゆっくりとひとつ瞬きをして、ここが晴れた南フランスのまぶしい空の下ではないことを確認する。
そんな優雅な夢をみていたのだ。
空気に入り交じる小川からの湿気に鼻をくすぐられて、老婆はようやくむっくりと闇の中に上体を起こす。
多少の身体の傾きは否めないものの、足元はしゃんとして、スリッパをはくにも苦労しない。
窓辺には、明るいうちに摘んでこられた、シャクヤクの花が一本、水差しにぞんざいに立ててあるのが見える。
坂を上がった山沿いに住む、亡き夫の妹が、明日はあの日だからって、持ってきたのだ。
だけど、もう、何十年前の話になるとしても、お墓に持って行くお花が、大きなシャクヤク一本だなんて、まさかわたしのことからかってるのかしらね。
常識がなってないのよ、常識が。独り言ばかり言ってしまう癖は、夫が死んでから顕著になった。
老婆はいつも夫の妹がからむと思い出すとびきり奇怪な思い出を、記憶の底から呼び起こしてみる。
深い絶望、不安、諦めのもたらす混乱の最中にいたときの話だ。
たったひとりの双子の姉が死んだ夜、とるものもとりあえず駆けつけてくれた親戚一同が、「このたびは…」「ご愁傷様です」と型で押したような挨拶を述べる中、世間知らずの夫の妹がまごつきながら放った一言、
「死んじゃって…かわいそうに」。
まっすぐで子供じみた感想は空中に浮いたまま、だれも手がつけられない。
涙を拭くハンカチの影で、ぐっと笑いをこらえたものだから、押し殺した笑いが後から後から思い出されて、十倍にも二十倍にも膨れ上がって、葬儀中も頭の中はそれでいっぱい。
幸せな葬儀だったのかもしれない。
老婆は思い出に浸る者特有の、どこにも焦点の合わない眼差しをして、ひざに置いた手だけが、そのときの仕草を模倣しようとピクッと反応する。
そして、唐突に止まっていた呼吸を深く吸い込んで、思い出の淵から蘇る。

窓辺にでて、庭を見渡すと、そこには仕舞い忘れた草刈り機がひとつ、うち捨てられた野犬のように、地面に転がっている。
あれは、だれの草刈り機だったかしら。そう、春に帰省した息子が余所から借りたまま、使いっぱなしだ。
表の勝手口をくぐると、老婆は寝間着のまま、そっと庭の盛り上がった土手に近づいてみる。
眠っている間にかいた汗が心地よく発散されていくのを感じる。
草刈り機の青い影に、自分の青い影が重なって、ああ、あなたに照らされてたのね、と初めて彼女は空を振り仰いだ。
そこには、大輪の菊のような月が、立派に鎮座していて、もうだれもが忘れ去った死に対して、丁寧に追悼の意を示してくれているのだった。

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