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小説でしか見かけない言葉

NujabesのLuv(Sic)シリーズを聴いていると、どこからともなく「邂逅」というワードが浮かんでくる。
邂逅なんて言葉、小説でしか見かけた事がない。
邂逅の意味は「思いがけなく出あうこと。めぐりあうこと」らしい。

Luv(Sic)シリーズは全部で6曲ある。特に4、5、6はどこか儚げで、どこか懐かしくて、どこか悲しくて、エモいのだ。もちろんオシャレなんだけど。

偶然か、必然か、今年のお盆はこの曲達をヘビーにローテーションしている。

毎年7月中旬から8月中旬くらいまで、決まってうちに青いトンボが来る。
僕は勝手にこの青いトンボを父だと思い込んでいる。

高校時代、僕と弟は同じ高校でサッカー漬けの毎日を送っていた。
週末の試合には、父と母がいつも観にきてくれた。
大体試合は夕方までには終わるので、その後はいつも決まった場所へ家族で向かうのがお決まりのコースだった。

映画を見にいき、銭湯に入り、いつもお世話になっている焼き鳥屋さんで食事をする。その日の試合のことや、世間話なんかをしながら、帰路に着く。

僕はこの時間がたまらなく幸せだった。

言うまでもなく家族との時間は僕の安全基地だった。
ずっとこの時間が続けば良いのにとさえ思っていた。

だから、父が亡くなった時、弟と話したのは、「俺らってさ、物凄い幸せだったんだね」ってことだった。
僕は父を尊敬していたし、友達のような存在だとも思っていた。
人は失って初めて気づくと言うが、本当にそうだと思った。
もう「ありがとう」も「ごめんね」も言えないし、元気な声も聞けない。

でも、悲しむ母を横目に、泣き言は言えなかった。
僕が支えなきゃの一心で、今日まで走ってきた。そして今も走り続けている。
気が付けば、今年の2月で父が亡くなってもう18年が経つ。もうすぐ父がいない人生の方が長くなるくらい、僕も歳を取った。

僕は成長出来ているんだろうか?
今の僕を見たら、父はなんと言うだろうか?
そんな事を考えながら、いつもお盆は父との邂逅について考えている。

父を感じられる出来事がいくつかある。
大事な商談があり、早起きしなくてはいけない時、目覚ましを掛けずに眠ってしまった事がある。しょっちゅう寝過ごしてしまう僕を心配したんだろう。
完璧な時間にスッと起きれる事が何度もある。
また、大学院に通っている時、死生観を扱う講義の日、奇しくもその日は父の命日であった。父を想い、号泣しながら講義を受けたのは後にも先にもその時だけだ。

目を閉じてみる。
父がいつも笑っている姿が思い浮かぶ。
きっと、僕達を応援してくれている。
そしてきっとこう言うと思う。

「マサならきっと大丈夫だよ」

後悔しないで生きるって言うけど、僕は嘘だと思う。
1ミリも後悔しないなんて無理だと思う。
でも諦めないのが人間でしょ。
諦めないでやり続けるから、それが美しいんでしょ。
もしもう会えなくても、想い続ければその人は永遠に
その人の中で生き続けるでしょ。
そしたらそれは、死んだことにならないでしょ。
でももしあなたの目の前に、会話出来る大切な人がいるんなら、心から伝えてほしい。あなたのためにも。きっとそれは限りなく後悔しない1ミリに近づくはずだから。

「ありがとう」
「大好き」
「ごめんね」

本当は会いたい。
話を聞いてほしい。
褒めてほしい。
抱きしめてほしい。

いつか僕が天寿を全うした時、果たして父に会えるんだろうか。
いつかきっと。必ず。どこかで。

感謝を込めて。


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