パブリック願掛け
1 不思議なところ「HOPE WALL」
少し不思議なところに行ってきた。
グランドレベルの2人と長岡さんによる「HOPE WALL」@渋谷キャストである。それは、商業ビルのパブリックスペースに置かれた、メッセージを好きに書けるベニヤの壁群で、昔は駅でよく目にした伝言板のフリースタイル版とも言ってもよさそうだ。
※ 長岡さんは今では別々の道を歩んでいるが著者が長年活動を共にしてきた盟友である。
上で“良いところ”や“面白いところ”ではなく“不思議なところ”と書いたのは、正直なところ、はじめはそれが何物であるかがよく分からなかったからだ。しかし、ポジティブな空間、ハッピーな場であることは直感的にすぐ分かった。“良いところ”と判断できなかったのは、そのための尺度が自分の中に見つけられなかったからだろう。だったらこれを“良いところ”と解するための尺度を探ってみたい。
2 ご利益のない壁
「HOPE WALL」はメッセージを書いた付箋を自由に壁に貼れる仕組みになっているのだけれど、それに加えて、合板を切り出してつくった絵馬も用意されている。ぶらぶらメッセージを見てまわっているとある壁に、たぶん女の子2人組が書いたであろう、神社でよく目にする類の願い事が記された絵馬が掛かっていた。どう考えても数日間の仮設のベニヤ衝立にご利益なんてあろうはずもないのに、さぞそこが神社であるかのように願掛けしている。また、たまたま居合わした親子連れは、メッセージを書くため用意されたテーブルに近づくやいなや、何のためらいもなくペンを手に取り何かを書き始めた。それらは著者にとってはかなり不可解な光景に映った。そういう意味で“不思議なところ”と表した。
3 公共のまなざし
でもよくよく考えてみると、絵馬も七夕も願い事を明文化して人目にさらすことに意味があるのかもしれない。みんなに聞こえるように声を大にするわけでもなく、机の奥にそっとしまっておくでもなく、もしかすると誰かの目に留まるかもしれない位のところで宣言する。そんな行為がゆくゆく願い事の成就につながるのであって、神仏のご利益なんかは思っているほどには重要じゃないのかもしれない。
では、“もしかすると誰かの目に留まるかもしれない位のところで宣言する”ことにはどんな効用があるのだろうか。それよりも、みんなの前で公言した方が発言に責任が伴い成就率が高まる気もする。いや、そこまでするのはプレッシャーや重荷となり逆効果か。あるいは、神仏にお願いするわけだから、そもそも人目に触れるかどうかはどうでもよいことかもしれない。先人たちは、神仏や先祖による超越的なまなざしを常に感じ取ることで身を律した日々を送っていた。願掛けもその一環である。
それらが失われた現代においては、その替わりとなるまなざしが必要となる。それが、この壁の前を行き交う人々なのかもしれない。願い事を見届けてくれる誰かを感じられる、その感覚が大切なのだろう。その誰かとは、家族や友達などの見知った間柄では霊気が薄過ぎ、神仏や先祖などの超越的存在までは必要ない。SNSやブログなど世界中の誰でも半永久的に閲覧可能なのも現実味をもった感触に欠ける。会ったこともなければ、これから会うこともないだろう、たまたまこの前を通った誰かから、見られるかもしれないし見られないかもしれない、はたまた、立場が入れ替われば自分がまなざしの側に回ることもありうる、雲を掴むような関係性や距離感が打って付けということか。これは公共空間が果たしうる知られざる役割と言ってもよさそうだ。
そのように考えると、「だったら、神社じゃなくても、七夕じゃなくても、あちこちに願い事を書けるところがあってもいいんじゃない?」というプロジェクトなのだろうと理解できてきた。そんなところがパブリックスペースにあれば365日願掛けDAYということになる。成就率が多少低くたって母数が格段に大きくなれば叶う願い事の数は増えるという勘定だ。もはや、ハッピー製造機と言ってよい。
願い事に限らず、多様なメッセージを引き出す呼び水として、いくつかの問いや俳句あそびなんかの仕掛けもあって、みんなの希望が楽しく引き出された壁になっていた。「HOPE WALL」に書かれたひとつひとつの願い事がいつの日か叶うことを祈って、この小論を締めくくりたい。